Share to: share facebook share twitter share wa share telegram print page

いただきます

いただきます(頂きます、戴きます)は、食事を始める際の日本語の挨拶である。「いただく」(「もらう」の謙譲語、または「食べる」「飲む」の謙譲語・丁寧語[1])から派生したもので、「ます」をつけないと挨拶として機能しない連語である[2][3]広辞苑では「出された料理を食べ始めるとき」と限定しているが[4]、単純に食前の挨拶となっている面があるため、自分で作った料理でも言うことがある。また食事だけでなく、物をもらうときにも言うことがある[5]

後述するように、挨拶として広く慣習化されたのは恐らく昭和時代からであり、古くからの伝統であるかは疑問視される[6]

語誌

「いただく」という語の語源は諸説唱えられてきたものの[7]、いまだ定説はない。この語は、元来、人間の「いただき」である頭上に載せる動作を指す普通語であったが、目上の人から物を賜る時に、それを高く掲げ、謹み(つつしみ)や感謝を表現して受け取ったことから、やがて「もらう」「買い受ける」を意味する謙譲語となっていった[3][8][7]。食べ物を「いただく」という場合、改まった式の日の食事で、神の前か貴人の前で、同時に同じものを食するときに言ったもので、もともとは食物を頭か額にまで掲げていたと考えられる[8][9][5][10][11]。中世に位階が細かくなると、人と会えばどちらかが目上であるということになり、また、相手を目上と思って尊ぶことを礼儀とするようになってからは、「いただく」機会は激増し[8]、この謙譲用法は確立されていった[3]。「食う・飲む」の謙譲語としての「いただく」は、室町末以後に成立した狂言に使用例がみられる[3]。したがって本来は、飲食物を与えてくれる人、または神に対しての感謝の念が込められていたと考えられる[5]

「いただきます」と「食べる」の語源の類似性が指摘されることがある。これは、神仏・貴人からいただく、すなわち「たまふ(給う)」という謙譲語から「たぶ」という古語が生まれ、これが変化して「食べる」の語源となったという説である[12]

食事前の挨拶以外の挨拶語としての「いただきます」は、食事前の挨拶としては「いただきます」を使用していなかった尼門跡で、正月行事の源氏かるたで札を取る時に「いただきます」という挨拶を行っていた記録が残っている[11][13]

挨拶の背景にある感謝

「いただきます」という言葉が謙譲語であるため、この挨拶の背景にはしばしば感謝の心があると指摘される。

上記の語源の通り、もっとも直接的な感謝としては、食事の提供者や農業・労働・調理にかかわった人への感謝があげられる[14][15][12][16][17]。現在も、調理や労働に携わった者、家族に向けて行われることが少なくない[18][19][17]

また、宗教的には神人共食の考え方が根底にあり、「いただきます」は神への感謝とする説が、民俗学等で唱えられている。ただし、この宗教的な考え方は現在では薄まり、現在は食事の作法として「いただきます」の挨拶が残っているとする[20][21][22][23][24]

これらの人や神への感謝に加えて、命を支える食物や、その食べ物を生み出す天地の恵み、それらを含めた関わったもの一切によって、我々が生かされていることへの感謝もまた、しばしば取り上げられる[25][26][14][21][12][27][28]

食材となった命への感謝説

1990年代以降の文献では、こういった様々な感謝の対象の中でも、食事になることで犠牲になった食材の命に対する感謝を取り上げる文献が多くみられる[18][29][30][31][32][33][34][16][35]。2001年には既にこの考え方は米国の文献にも登場している[36]

2004年のArran Stibbeによれば、福岡で行われた授業での、お年寄りから話を聞いて「なぜ『いただきます』と言うのか」を生徒に作文させるという課題では、この「犠牲になった食物への感謝」を祖母から聞いたという生徒が見られた[37]。また、2005年の金澤聡でもこの説は祖父母や両親から食卓で教わるものとしている[38]

1990年代の文献では、ひろさちやや仏教保育では、「いただきます」で終わる御仏に感謝する食前のことばを食前に唱え、その食前のことばの意味に「食物の命への感謝」が込められているとする[18][29]。2010年の大河内大博は、「犠牲になった食物への感謝」という考え方と、仏教の『出曜経』との関係性を指摘している[39]。2018年のKalinga Seneviratneによれば、この感謝の哲学は日本最大の宗派である浄土真宗の信仰に由来する[40]

さらに、2000年代以降は、この「犠牲になった食物への感謝」、「(食べ物に対して)あなたの命を『いただきます』」ということこそが「いただきます」の語源であるとする説も見られる[41][42]。2005年秋にはTBSラジオ「永六輔その新世界」にて「いただきます」が話題になり、2006年の毎日新聞の記事で永六輔は命をいただくことが「いただきます」であるという考えを述べているが[43]、2006年の福井県立若狭図書学習センターの調べではこの根拠は見つからなかった[10]

宗教学の観点から、1998年の関口和男は、以下のような分析を行っている: かつて米などの食用植物を作るには多大な労力が必要だったために、食物を大切にし、食事において「いただきます」「ごちそうさま」の挨拶を行っていた。しかし現在では機械化や集約農法により労力は大幅に減り、食物の無駄も増えている。それでも食べ物を粗末にすることへの抵抗感や「いただきます」「ごちそうさま」の挨拶が残っているのは、単純に前時代の習俗の名残や儒教の影響というだけでない。これは、自然を技術の投下対象として見る近代の考え方ではなく、人間と同等の生命体とみなすというアニミズム・原始的心性の聖性の考え方である。この考え方は自然保護のテーゼにも通じるものがある[15]

教育では、2000年の鈴木真由子らが学校教育への展開を考慮している[30]他、2005年の真鍋公士や2006年の弘中邦典らによって、「いただきます」の意味を考えさせ、「犠牲になった食物への感謝」を気づかせる教育が行なわれている[44]。2008年には、農業から調理、摂食までを通じて体験させることで、食材の命を認識でき、命を「いただきます」と唱えることができるようになるという報告もある[45]。また、食育においても「いただきます」について食と命の関係について取り上げられることがあるが、2011年の中村恵子らによる東北6県の食育推進計画の調査によれば、この時点ではこの取り組みが行なわれていたのは東北6県のうち山形県のみであった[46]。2013年の農林水産省の食文化学習ツールでは、「いただきます」は「いのち・知恵・労働・周りの人・自然」と様々なものに感謝しているとする[47]

食材への感謝心をもつことで、箸の使い方が良くなる[38]、好き嫌いが減る[35]とする文献があり、また食材への感謝心により残菜が少なくなったという報告がある[35][44]。また、「いただきます」・「ごちそうさま」という挨拶と食事への感謝心が、学童の朝食摂食につながるとする研究もある[48]

2012年の川嶋かほるの統計によれば、「いただきます」「ごちそうさま」の挨拶を行っていた79.8%の人のうち、「食事を作ってくれた人」に対して行っていたのは57.5%、「食べ物そのもの」に対して行っていたのは24.8%だった[17]


挨拶の形式と効果

食前の挨拶として「いただきます」を行う場合はしばしば合掌とお辞儀を伴い、神社仏閣での祈りの動作との類似性が指摘されている。また、特に幼稚園・保育園や小学校においては、集団の全員が着席してから「いただきます」を行い、同時に食べ始める。対照的に、幼稚園・保育園では、食べ終わりや「ごちそうさま」までは必ずしも集団が同時に行うことを求められない[49]。学校教育においては、しばしば以下のような定型句として斉唱される[50]

先生、いただきます。 皆さん、いただきます。

保育施設においては、挨拶をすることで、「いただきます」・「ごちそうさま」という言葉が食事の始まり・終わりという区切りとなり、落ち着いて食事できる環境が実現するという[51]

歴史

食前の挨拶「いただきます」の発声がいつ頃始まったか関しては定かでない。1983年から始められた国立民族学博物館の共同研究「現代日本における家庭と食卓 ── 銘々膳からチャブ台へ ── 」[52]では、当時70歳以上(1913年前後以前の生まれ)の計284人(女性259人、男性25人)にアンケートを行っており、貴重な証言を得ている。これによれば、対象者らが若かったころ、箱膳で食していた時代には、「いただきます」は決して一般的とは言い難いものであった。ほとんどの家庭において食前に神仏へのお供えがあった一方で、食前の挨拶はないことが非常に多く、またあったとしても様々な挨拶の言葉が存在した。それがやがて必ず言うようなものとなり、その文句(「いただきます」に限らない)も統一されてきたのは、軍国主義化していった時代ごろからのしつけや教育によるものであると推測されている[53][6]。柳田も1946年に出版された著書に、「いただきます」が近頃普及したものだと言及している[8]

比較的古い文献に食前の挨拶として現れる例を挙げる。

  • 1934年 「御飯はいただきますで始め、ごちそうさまで終わりましょう。」[25]
  • 1937年 「(前略) お膳の前へ坐ると、頂きますとお辞儀をするし、お終いになると、御馳走さまといったり (後略)」[54]
  • 1939年 「そして、その一味の婆さんが一緒に弁当をたべるとき、きっと私に向っていただきます、とあいさつをしたという世にも滑稽な話。」[55]

Jタウンネットが2015年に実施したネット上のアンケートによれば、食前に「いただきます」と言うと回答した人は合計して9割を超えている[56]

日本語以外の食前の挨拶

食前の挨拶としては、例えば Bon appétit!(), Buon appetito! (), Guten Appetit! ()(いずれも直訳は「良い食欲を」)、Eet smakelijk!(、「おいしく召し上がれ」の意) などがある。これらは、本来的にはこれから食べようとする相手へかける言葉であり、「いただきます」とはやや性格を異にする。日本語だと「召し上がれ」に近く、たとえばレストランなどでは給仕が客にこのように声をかけることがある。あるいは同じテーブルに着いた人々が「お先に召し上がれ」の意で互いに声をかけあったり、同グループで隣のテーブルに先に料理が運ばれてきた際に用いることはある[57]

「いただきます」の独自性と、共通性

しばしば、「いただきます」という挨拶は、(意味内容や、一語だという点で)「日本語独自のものである」と言われる[58][59]

英語には(一語で)「いただきます」に直接的に対応する言葉はなく[60]、(近年の)アメリカの中学生を対象とした挨拶の調査では、食事の挨拶に特に定型句はないということであった[61]。(たしかに「いただきます」のような一語の言い方で相当するものは、ほぼ無いが)だが、あえて言えば、類似の習慣としては、クリスチャン(キリスト教徒)が食事の前(後)に、手を組んで神ヤーウェに対して直接的に、まるで親しい人と会話をするように、(目を閉じて、声を出して、あるいはしばしば声を出さずに心の内の自身の声で)感謝の気持ちを伝えるための、いくつかの文から成る挨拶の文章、がそれに相当する。(第三者が「(クリスチャンの)食前の祈り blessing」と呼んでいる行為の時に、クリスチャンが(おおむね定型的に)心の内でヤーウェに対して語りかけている文章全体が、日本語の「いただきます」という短い言葉に相当する。)[62]  →#キリスト教 
(このように、クリスチャンに限れば おおむね相当する習慣があるわけだが、かつては欧米の人々のほとんどがクリスチャンであって食事のたびに感謝の文章を内心で言っていたが、近年では欧米でもクリスチャンでない人々(非クリスチャン)が増えてきているので、そういうたぐいの人々(欧米人だが信仰心の薄い人々)は、食べ物を前にしても何の感謝の気持ちも抱かずにいきなり食べ始めてしまう傾向があるので、そういう人々には「いただきます」に相当する習慣がほぼ無いと言ってもいい、という状況となっている。)

中国語においても「いただきます」、「ご馳走さま」に直接的に対応する言葉はなく、直訳すると「我开动了」「承蒙款待」となるが、会話だと、不自然となる場合がほとんどである[63]。さらに、苗族と布依族を対象にした調査では食事前後の挨拶はないという[64]。しかし、例えば日本のドラマを中国語に翻訳する際に、一人で食事をしている人の「いただきます」などをこのように直訳しても、違和感はない[63]

ブラジルにおいても「いただきます」に相当する言葉(一語)はなく、そのかわり、「Vamos comer(さぁ、食べよう)」という言葉とともに食事を開始する。ブラジルの日系人はかつては「いただきます」を言う習慣があったが、現在は世代の進行と混血により日本語を話すことが少なくなり「いただきます」も行われることがなくなりつつある[65]

セブアノ語(ビサヤ語)ではManga-on na ta!が対応するという研究がある[66]

また、ベトナムでのフィールドワークにおいて、各人が食前に家の人・周囲の友人に「戴きます」と一言述べてから食事を始めるという報告がある[67]

食前の祈り

キリスト教

「いただきます」「ごちそうさま」という挨拶は、(広辞苑でも指摘されているように)キリスト教徒の食前・食後の祈り(blessing)の習慣との類似性が指摘されることがある。また、どちらも感謝の気持ちの表明をしている、という共通性が指摘された上で、その表明のしかたの違いを分析しつつ対比されたりする。食前・食後の祈りは、声に出して祈ることも、声に出さずに祈ることもある[68]

(クリスチャンが食前にヤーウェに対して言う文章が具体的にどのようなものかということを、非クリスチャンの人々は全く知らないであろうし、その具体的な文章を知らないと なぜ類似の習慣だと言えるのか全く理解できないであろうから、それを下に解説する)

キリスト教の中の教派ごとに、微妙に定型的な言い回しが異なっていることもあるし、ある教派の人のためにも、ひとつの定型文しかないわけではなく、いくつか定型文が用意されていることが多い。一例(あくまで一例)としてカトリック修道院での例を挙げてみると以下のようになる。

定型文の例 1
父よ(※)、あなたのいつくしみに感謝して、この食事をいただきます
ここに用意されたものを祝福し、
わたしたちの心とからだを支える糧としてください。
わたしたちの主、イエス・キリストによって。アーメン
[69]
定型文の例 2
父よ(神よ)、わたしたちを祝福し、
あなたへの仕事を続けるために、この食事を祝福してください。
わたしたちの主、イエス・キリストによって。アーメン。[69]

※ クリスチャンはヤーウェ、つまり天地や生命を創造し、その後もありとあらゆる生命のことを愛し、生かしてくれている、と考えられている存在のことを大抵、(あえて)「父」と呼ぶ。これはイエスの弟子たちが、先生であるイエスに対して どのように祈ったらいいのか、その祈りかた(ヤーウェとの対話のしかた)を尋ねた時に、イエスがまるで親しい父親に対して呼びかけるようにすることを教えたからである。イエスが直弟子たちに対して教えたヤーウェへの祈りの言葉・文章(の例)を、「主の祈り」と言う。「主の祈り」の中でも、「日々の糧」に対する言及がある。 クリスチャンは、定型文をふまえて、それに沿った形にしたうえで、その日にしなければならないことや、その時々の状況に応じて、途中の言い回しを変化させている。いずれにせよ、実際に目の前にヤーウェがいるかのように、まるでそのヤーウェに語りかけるように、内心の声で話している。

プロテスタントでは、食前の祈りで、もっと長い文章でヤーウェに呼びかける(語りかける)ことも多い。

食前・食後の祈りは、ひとりで食事をする時は大抵 内心の声で言い、複数名が食卓をともにする時は、誰かが代表して(たとえば家庭であれば父親や母親や祖父母など指導的立場にある人が、あるいは平等に持ち回り式でその日に声に出して言う人を決めて)声に出して言い 他の人々は内心の声でその文章をなぞる、ということが行われる。

日本の宗教では祈る時に「合掌」し、「いただきます」でも「合掌」するが、キリスト教では祈る時に「手を組む」ので、食前・食後の祈りでもやはり手を組んで(大抵、目をかるく閉じて)言う。

アイヌ語

1901年のジョン・バチェラーによれは、アイヌも食前の祈りを行うことがある。常に行うわけではないが、家長が食事に当たり神の善美を記憶中に喚起して「我らを養う神よ、この食物の為に汝に感謝す、我が肉体の為にこれを祝せよ」という旨を唱え、感謝するという[70]

脚注

  1. ^ 松村明(編)(2006), 『大辞林』 第3版 電子版, 三省堂.
  2. ^ 松村明(編)(2006), 『大辞林』 第3版 電子版, 三省堂.
  3. ^ a b c d 小学館国語辞典編集部(編)(2006), 『精選版 日本国語大辞典』, 小学館.
  4. ^ 新村出(編著)(2008), 『広辞苑』 第6版, 岩波書店.
  5. ^ a b c 山口佳紀(編著)(2008)『暮らしのことば 新 語源辞典』, 講談社, 80頁.
  6. ^ a b 熊倉功夫 (1999), 『文化としてのマナー』, 岩波書店, 47-49頁.
  7. ^ a b 前田富祺(編) (2005), 『日本語源大辞典』, 小学館, 126頁.
  8. ^ a b c d 柳田国男 (1946), 「毎日の言葉」, 『柳田国男全集 第15巻』(1998) に再収, 筑摩書房, 249-250頁.
  9. ^ 堀井令以知(編著)(1997), 『決まり文句語源辞典』, 東京堂出版, 32頁.
  10. ^ a b 福井県立若狭図書学習センター (2006年11月26日). “「いただきます」「ごちそうさま」などの食事のあいさつの語源が知りたい。”. レファレンス協同データベース. 国立国会図書館. 2018年5月13日閲覧。
  11. ^ a b 埼玉県立久喜図書館 (2010年9月17日). “「いただきます」の語源について、いつ頃から使われたのか知りたい。”. レファレンス協同データベース. 国立国会図書館. 2018年5月13日閲覧。
  12. ^ a b c 黒澤勉「正岡子規における「食」の問題」『医事学研究』第17巻、岩手医科大学、2002年12月10日、114-115頁、ISSN 09126597NAID 110005000516 
  13. ^ 井之口有一、堀井令以知、中井和子「尼門跡の言語環境について : 尼門跡の言語生活の調査研究 (II)」『西京大學學術報告. 人文』第10巻、1958年10月25日、15-16頁、NAID 110000412472 
  14. ^ a b 山田邦男「自己存在についての一考察:禅の立場に即して」『人間科学論集』第15号、大阪府立大学人間科学研究会、1983年、101頁、ISSN 02880016NAID 120002385566 
  15. ^ a b 関口和男「人間環境と原始的心性--エリアーデ宗教学を踏まえて」『法政大学教養部紀要』第107号、法政大学教養部、1998年6月、117頁、ISSN 02882388NAID 120001157992 
  16. ^ a b 真砂徳子エッセイ ただ今、道産子修行中!まさごのりこ北海道魅力発見録 ~その6~ ~北海道のことば、あずましく~』(PDF) 2007 年 4 月号(通巻525号)、一般財団法人北海道開発協会〈広報誌「開発こうほう」〉、2007年4月、26-27頁http://www.hkk.or.jp/kouhou/file/no525_essay.pdf2018年5月9日閲覧 
  17. ^ a b c 川嶋かほる、櫻井朝美「食べ物に対する「いのち」の意識」『日本調理科学会大会研究発表要旨集』第14巻、日本調理科学会、2012年、doi:10.11402/ajscs.14.0.61.0 
  18. ^ a b c オープンアクセス小室美智世『自然の恵みを食卓に 秀才も病人も台所から生まれる』鈴木出版〈まんだらブックス〉、1994年、91-92頁。ISBN 9784790230175https://books.google.co.jp/books?id=9pEwQ6VsbesC&pg=PA91 
  19. ^ オープンアクセス佐島群巳『環境教育入門: 総合的学習に生かす』国土社、1999年9月25日、142頁。ISBN 9784337750036https://books.google.co.jp/books?id=cie6v3eoCCsC&pg=PA142 
  20. ^ 栗田靖之「住い方の文化人類的考察」『住宅建築研究所報』第12巻第0号、一般財団法人 住総研、1986年、67頁、doi:10.20803/jusokenjo.12.0_63NAID 130006729956 
  21. ^ a b 奥田和子「現代若者における食事マナーの意識と変容 : 甲南女子大生の調査報告から」『甲南女子大学研究紀要』第23巻、甲南女子大学、1986年、193-194頁、ISSN 03864405NAID 110000431179 
  22. ^ 石毛直道I 食卓文化論」『国立民族学博物館研究報告. 別冊』第16巻、国立民族学博物館、1991年12月25日、34-37頁、doi:10.15021/00003581hdl:10502/3609ISSN 0288190XNAID 110004716099 
  23. ^ 井上忠司2 食卓生活史の量的分析」『国立民族学博物館研究報告. 別冊』第16巻、国立民族学博物館、1991年12月25日、75頁、doi:10.15021/00003578ISSN 0288190XNAID 110004716130 
  24. ^ (資料3)「日本食文化」の内容について(たたき台)” (PDF). 「日本食文化の世界無形遺産登録に向けた検討会(第1回)」配付資料一覧. 農林水産省. p. 1 (2011年7月5日). 2018年5月9日閲覧。
  25. ^ a b オープンアクセス西川文子「五、 御飯はいただきますで始め、ごちさうさまで終りませう。たべものにすき嫌ひを云はぬやう叮嚀にかみこぼしたり、御膳をよごさぬ樣にしませう」『ハイハイ学校提唱講話』子供の道話社、1934年、41-44頁。NDLJP:1053250/30 
  26. ^ 秋山房雄「食を考える (食と心)」『日本循環器管理研究協議会雑誌』第12巻第3号、日本循環器管理研究協議会、1978年、170頁、doi:10.11381/jjcdp1974.12.163ISSN 0914-7284NAID 130003661637 
  27. ^ 熊倉功夫 (2012年3月1日). “日本の伝統的食文化としての和食”. 日本食文化テキスト. 農林水産省. 2018年5月13日閲覧。
  28. ^ 古閑博美「辞儀と魅力行動 : 教育現場への提言」『嘉悦大学研究論集』第48巻第2号、嘉悦大学、2005年10月31日、69-70頁、ISSN 02883376NAID 110004792767 
  29. ^ a b オープンアクセス前原寛『子育て現場の試行錯誤: いい子に育ててごめんなさい』 3巻、図書出版 南方新社、1999年、56頁。ISBN 9784931376274https://books.google.co.jp/books?id=IeuZ8T4EUUsC&pg=PA56 
  30. ^ a b 鈴木真由子、野澤朋代、吹山八重子「学校教育における Death Education展開の可能性」『教育実践研究指導センター研究紀要』第19巻、新潟大学、2000年、109頁、NAID 110000509586 
  31. ^ 鎌田尚子「「看護からみる食」=栄養学のルネッサンス」『日本食生活学会誌』第13巻第1号、日本食生活学会、2002年、25頁、doi:10.2740/jisdh.13.22ISSN 1346-9770NAID 130003846256 
  32. ^ 鷲尾純一「<学外からの眼>いのちへの敬い」『筑波フォーラム』第73号、筑波大学、2006年6月、13-15頁、ISSN 03851850NAID 120000843558 
  33. ^ Stibbe Arran (2007). “Haiku and Beyond: Language, Ecology, and Reconnection with the Natural World”. A Multidisciplinary Journal of the Interactions of People and Animals 20 (2): 11. doi:10.2752/175303707X207891. ISSN 0892-7936. https://eprints.glos.ac.uk/675/. 
  34. ^ 春木敏「ライフスキル形成に基礎をおく食生活教育」『日本食生活学会誌』第17巻第4号、日本食生活学会、2007年3月30日、8頁、doi:10.2740/jisdh.17.281ISSN 18812368NAID 10018908094 
  35. ^ a b c 深見沙織、中村 崇仁、柳田勝康、山田慎悟、重村隼人、伊藤美香利、岩田弘幸、朱宮哲明、西村直子、尾崎隆男「入院児と保護者に対する食育の取り組みとそのアンケート結果」『日本農村医学会雑誌』第60巻第2号、日本農村医学会、2011年7月30日、99-102頁、doi:10.2185/jjrm.60.96ISSN 04682513NAID 10029758479 
  36. ^ Gregg Krech (2001-11-01). “Itadakimasu”. Naikan: Gratitude, Grace, and the Japanese Art of Self-Reflection. Stone Bridge Press. p. 55. ISBN 1880656639. https://books.google.co.jp/books?id=_JyqsffgxMkC&pg=PA55 
  37. ^ Arran Stibbe (2004). “Environmental Education Across Cultures: Beyond the Discourse of Shallow Environmentalism” (PDF). Language and Intercultural Communication 4 (4): p.253, pp.256-257. doi:10.1080/14708470408668875. ISSN 1470-8477. https://pdfs.semanticscholar.org/bac7/c5d02bae23fbb85d5ab1a625b1a609588b65.pdf. 
  38. ^ a b 金澤聡「「食の授業」から「食育の授業」へ―いつ,どこで,誰が,何をすべきか―:―いつ, どこで, 誰が, 何をすべきか―」『日本未病システム学会雑誌』第11巻第1号、日本未病システム学会、2005年、184頁、doi:10.11288/mibyou1998.11.184ISSN 1347-5541NAID 130004185763 
  39. ^ 大河内大博「「食」のスピリチュアルケア」『太成学院大学紀要』第12巻、太成学院大学、2010年3月、192-193頁、ISSN 13490966NAID 110007523178 
  40. ^ Kalinga Seneviratne (2018-02-19). Mindful Communication for Sustainable Development: Perspectives from Asia. India: SAGE Publications. p. 183. ISBN 9789352805549. https://books.google.co.jp/books?id=0ThODwAAQBAJ&pg=PA183 
  41. ^ 佐藤義隆「タンポポ空を行く」(PDF)『岐阜女子大学紀要』第34号、岐阜女子大学、2005年、29頁、ISSN 02868644NAID 110001127055 
  42. ^ 政策評価・独立行政法人評価委員会 政策評価分科会(12月1日開催)議事録”. 政策評価・独立行政法人評価委員会. 総務省 (2014年12月1日). 2018年5月9日閲覧。
  43. ^ “考:「いただきます」って言ってますか? 「給食や外食では不要」ラジオで大論争-家庭”. MSN毎日インタラクティブ (毎日新聞). (2006年1月21日). オリジナルの2006年2月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20060218022159/http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/katei/news/20060121ddm013100126000c.html 
  44. ^ a b 海老根理絵「死生観に関する研究の概観と展望」『東京大学大学院教育学研究科紀要』第48巻、東京大学大学院教育学研究科、2008年、198頁、ISSN 1342-1050NAID 120001665939 
  45. ^ 杉山道雄、石原加代子、内田美佐子、尾木千恵美、古賀裕子、鷲見孝子、平光美津子、山澤和子「「ちびっ子食農教育」実践報告」『東海女子短期大学紀要』第34巻、東海女子短期大学、2008年1月1日、89頁、ISSN 02863170NAID 110007056174 
  46. ^ 中村恵子、大森桂、菅原悦子、高木直、長沼誠子「東北各県の食育推進計画について」『東北家庭科教育研究』第10巻、日本家庭科教育学会東北地区会、2011年5月1日、58頁、ISSN 1347-331XNAID 120005531128 
  47. ^ 農林水産省 (2013年9月25日). “資料編” (PDF). 食文化学習ツール「私たちの食文化ってどんなもの?」. 農林水産省. p. 11. 2018年5月9日閲覧。
  48. ^ 稲井玲子、倉橋伸子、早川麻理子、小澤秀子、東元稔「「頂きます」・「ご馳走様」の挨拶が出来,食事に感謝心をもつ学童が増えると,朝食摂食率は上昇する。」『栄養学雑誌』第65巻5 Supplement、日本栄養改善学会、2007年9月1日、175頁、ISSN 0021-5147 [出典無効]
  49. ^ Polly E. Szatrowski (2014-01-10). Language and Food: Verbal and nonverbal experiences. Pragmatics & Beyond New Series. John Benjamins Publishing Company. p. 237. ISBN 9789027270887. LCCN 2013-36584. https://books.google.co.jp/books?id=R75OAgAAQBAJ&&pg=PA237 
  50. ^ Lois Peak (1991-11-18). Learning to Go to School in Japan: The Transition from Home to Preschool Life. University of California Press. p. 92. ISBN 9780520914285. LCCN 91-13628. https://books.google.co.jp/books?id=FQSRKGCPX9YC&pg=PA92 
  51. ^ 参考資料4 教育・保育施設等における事故防止及び事故発生時の対応のためのガイドラインについて” (PDF). 教育・保育施設等における重大事故防止策を考える有識者会議(第1回). 内閣府. p. 17 (2016年4月25日). 2018年5月10日閲覧。
  52. ^ その成果は、(石毛直道, 井上忠司『現代日本における家庭と食卓 : 銘々膳からチャブ台へ』国立民族学博物館〈国立民族学博物館研究報告別冊〉、1991年。 NCID BN07280909https://minpaku.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=custom_sort&search_type=2&q=329 )にまとめられている。
  53. ^ 熊倉功夫「食卓生活史の調査と分析 : 食卓生活史の質的分析(その2) ―食べものと食べかた―」『国立民族学博物館研究報告別冊』第016巻、国立民族学博物館、1991年12月、111-112頁、CRID 1390853649750882944doi:10.15021/00003587hdl:10502/3607ISSN 0288-190X 
  54. ^ 長谷川時雨 (1937), 『日本橋あたり』
  55. ^ 宮本百合子 (1939), 『十二年の手紙』 1939年2月19日 - 宮本百合子が1939年に獄中の夫へ宛てた手紙。
  56. ^ Jタウンネット - いただきますの「合掌」、全国共通のマナーじゃなかった! 東北人は...?
  57. ^ 一丸禎子「フランス語に「いただきます」はない!?」『フランス語ホームステイライブ: 中級からのコミュニケーション』三修社、2011年、110頁。ISBN 978-4384056662 
  58. ^ 神戸市立中央図書館 (2010年6月30日). “食事の前の「いただきます」を他の国(アジアなど)では、どう言うか。”. レファレンス協同データベース. 国立国会図書館. 2018年5月13日閲覧。
  59. ^ 京都女子大学附属小学校図書館 (2016年2月29日). “「いただきます」という言葉は、外国ではなんと言うのでしょう?(4年生児童)”. レファレンス協同データベース. 国立国会図書館. 2018年5月13日閲覧。
  60. ^ Mathew Hillier (2003-04). “The role of cultural context in multilingual website usability” (PDF). Electronic Commerce Research and Applications 2 (1): 2. doi:10.1016/S1567-4223(03)00005-X. http://www.academia.edu/download/779020/ECRA-Hillier-2003.pdf. 
  61. ^ 近藤 富英「アメリカの中学生の日常あいさつ言葉について」『信州豊南短期大学紀要』第26号、信州豊南短期大学、2009年3月、5-6頁、CRID 1050564287967806592ISSN 1346034XNAID 120005467909 
  62. ^ 広辞苑』第六版でも、そのあたりのことは軽く触れている。
  63. ^ a b 唐远远 (2022年12月26日). “浅析日本人用餐前要双手合十说「いただきます」“我开动了” 此餐桌文化现象的原因”. 中国高校人文社会科学信息网. 2023年7月8日閲覧。
  64. ^ 酒井映子、末田香里、内島幸江「中国貴州省西南部の苗(ミャオ)族と布依(プイ)族の食文化(第4報) : 日常の食事状況」『名古屋女子大学紀要. 家政・自然編』第40巻、名古屋女子大学、1994年3月5日、146頁、ISSN 09153098NAID 110000470861 
  65. ^ 山崎由佳 (2017年9月5日). “日本人の「いただきます」の精神”. 世界HOTアングル. 独立行政法人 国際協力機構. 2018年5月10日閲覧。
  66. ^ 安部清哉「日本語-セブアノ語(ビサヤ語)-英語対照基礎語彙集5000」『フェリス女学院大学文学部紀要』第38巻、フェリス女学院大学、2003年3月1日、34頁、ISSN 09165959CRID 1050564288851844864 
  67. ^ 山川篤子「フィールドワーク便り ベトナム人の家への招待」『アジア・アフリカ地域研究』第11号、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科、2011年、231頁、ISSN 1346-2466CRID 1050845760662110080 
  68. ^ 南満幸「ホームステイ・ガイドブック(ホストファミリー用)」『稚内北星学園短期大学紀要』第9巻、稚内北星学園大学、1996年12月、94頁、ISSN 09160566NAID 110005943954 
  69. ^ a b カトリック聖パウロ修道会の公式サイト
  70. ^ オープンアクセスBatchelor John『アイヌ人及其説話』 中編、教文館、東京、1901年、35頁。NDLJP:767829/30 

関連項目

外部リンク

  • いただきますする。 - ウェイバックマシン(2013年6月18日アーカイブ分) - 「いただきます」という挨拶の起源や広がりに関する先行研究をまとめ、さらに新たな独自調査を加えたもの。『日本人はいつから「いただきます」するようになったのか』という題で電子書籍化もされている。
Kembali kehalaman sebelumnya