さいたま市立大宮北高等学校
さいたま市立大宮北高等学校(さいたましりつ おおみやきたこうとうがっこう)は、埼玉県さいたま市北区にある市立高等学校。 概要1956年創立で、さいたま市立の高校3校の中ではさいたま市立浦和高等学校に次ぎ2番目に開校した。 全日制課程で普通科、理数科を設置する。3学期制、50分・6時間授業(水曜日のみ7、8限という名目で特別活動がある)で、隔週で土曜日にも4時限の授業が行われる。2021年度新入生までは2年次からコース分けが行われていたが、2022年度新入生より普通科は2年次まで全員共通カリキュラムで、3年次よりコース分けが行われる。 ICT教育に力を入れており、2017年度入学生から全校生徒にタブレット端末(現在はiPad)を各生徒が全員購入となる。それとは別に理数科は、さいたま市からノートパソコン(パナソニック製のレッツノート)が無償貸与される。 生徒数は959名(男子580名、女子379名=2022年度時点)。 2022年度学力検査(入試)から、数学と英語において学校選択問題が採用された。 沿革
制服1956年の創立以来、男子は黒色の詰襟、女子は紺色のブレザーを指定。 2021年度からは女子のスラックス着用が認可された。 2022年4月入学生からは、制服購入にかかる費用負担を減らすほか、2020年度の女子生徒からのスラックス着用希望の申し出を受けたことにより、既存制服と選択が可能な形でユニクロ製品を制服として新たに採用した。 校歌
校章大宮北高校の校章は「りんどう」と呼ばれるデザインのもので、美術の邑田教諭の尽力で東京芸術大学の学生グループに制作を依頼した。そこで上がった数点の作品から職員・生徒会代表で選ばれたものがりんどうである[1]。 開校した当時に周辺に咲いていたりんどうの花に由来するもので、花言葉「友情」と掛けている[1]。 なおこれ以前にも別の校章が存在した[1]。 設備・施設
学校行事体育祭例年5月下旬から6月上旬ごろに体育祭が開催される。近年は文化祭と合わせて「北高祭」と呼ばれており、テーマも文化祭と共通のものになっている。各学年が8クラス編成のため(9クラスに臨時増した年もある)赤団、青団、黄団、白団、紫団、桃団、橙団、緑団(2004か2005年度までは水組)の8つの団に分かれて争う。現在は「団」と呼称されているが、2011年度以前は「組」であった。1970年を最後に休止(休止中は代替として陸上競技会を開催した年もある)されていたが、1980年に復活した。 例年、先述の団ごとに「ペアダン(ペアダンス・ペア団などの呼称揺れあり)」と呼ばれるパフォーマンスを実施している。男女が1組になり創作ダンスを披露するもので、全員が参加する。「団・ダンス」と呼ばれていた1993年からは自由参加となったが、現在は全員参加に戻っている。 文化祭例年8月下旬から9月上旬ごろに行われる。2日間開催されるのが通例。
SSH事業大宮北高校は2016年度に文部科学省のスーパーサイエンスハイスクール(SSH)指定校となった。2020年度に1期が終わり、2021年度は経過措置が取られたが、2022年度にSSH指定校に復帰し、様々な事業が行われている。なお、2期目の指定は2026年度まで。 フィールドワーク・研究事業SSH臨海フィールドワーク千葉県館山市のお茶の水女子大学湾岸生物教育研究センターを拠点に、生物の採集や地層の観察を行うフィールドワークで、2017年ごろから毎年行われている。人気が高く、参加者は抽選で選ばれることとなる[3]。 SSH秩父ジオパーク旧称はSSH長瀞フィールドワークで、埼玉県長瀞町の埼玉県立自然の博物館を拠点に、水生生物の採集や土壌に住む生物の採集を行うもの[4][5][6]。実施内容は年度によって異なり、気象状況などによって判断される。生徒は募集制。 SSH化石採集フィールドワーク栃木県佐野市の佐野市葛生化石館を拠点に古代ペルム紀の化石の採集を行うもの。毎年秋ごろ開催され、他のフィールドワークと同じく応募多数の場合抽選となる[7]。 SSH福島復興フィールドワーク東日本大震災で大きな被害を受けた福島県浜通りや原発事故の影響を受けた地域に赴き、復興について考えるもの。現地の見学や伝承館の訪問、地元高校生との交流などを泊まりで行う[8]。また、このフィールドを終点として、1年かけて「福島復興探究学」が行われ、こちらは早稲田大学の斎藤恭一教授らの講演や、事故後から現地を取材してきた大宮北高校数学教諭の講演なども行われる。 Hamadoori Reborn上記プロジェクトに関連し、被災地の住民と生徒の連携により「持続可能な町おこし」の実現をめざすプロジェクトで、浜通り地域の8市町村と2年生8クラスがそれぞれペアとなる。2023年度、67期生よりスタートし、2026年度の70期生まで継続的に引き継いでいく予定[9]。 数理探究→STEAMS TIME班ごとにテーマを設定し、1年生の1年間をかけて継続的に研究をする授業。旧学習指導要領の66期生(2021年度入学生)までは「数理探究」、67期生からは「STEAMS TIME」の名称で実施している。従来、情報の授業だった時間が充てられ、基礎的なパソコン操作などを学びながら研究を進める。良質な研究は課題研究発表会で披露される[10]。 国際交流・外国語事業SSHハワイサイエンス研修ハワイ・オアフ島のハワイ大学海洋生物研究所やハワイ島のマウナケア自然保護区・ハワイ火山国立公園などで地質や生物の生態の研究が行われる。2022年度は5泊7日で実施され、9名の生徒の参加があった[11]。 SSDE→GC4S英語のディベートを通して英語の技能を向上させるもので、土曜日の放課後等に年10回ほど実施される。SSDEは「Super Science Debate in English」の略称。なお、2023年度からはさらに内容を広げた「GC4S」として実施されていて、こちらは「Global Communication for Science・SDGs・Society 5.0・Skills building」の略称となる[12]。 BEST-CLaSS大宮北高校でコミュニケーション英語や英語コミュニケーションの授業枠を利用して行われいる独自の授業で、ネイティブの教師2人と基本的な会話スキルや表現を身につけることを目的としている。しばしば「BestClass」と誤記されるが、正式名称内の小文字はaのみで、これは名称を「Basic English Skills Training-Communicative Learning and Successful Strategies(基本的な英語スキルトレーニング:コミュニカティブラーニングと成功への戦略)」の頭文字から取ったことに由来している。 部活動運動部
文化部
同好会
委員会2023年現在、以下の委員会が存在する。
マスコットキャラクター2010年代に入り、マスコットキャラクターとして「とっきー」が誕生した。正門前にある時計塔をモチーフとしたキャラクターで、各所で活躍している。なお、「トッキー」「とっきぃ」などの表記揺れも見られる。 メディアテレビ
ラジオ
コマーシャル
ウェブメディア
イベント著名な出身者
刊行物ならせと大宮北高校生徒会により1960年代ごろから発行されている生徒会誌。1960年代半ばより年間になり、以降毎年3月発行で、2023年3月には最新刊の54号が発行されている。内容はアンケート企画や体育祭・文化祭の結果を中心に部活・委員会紹介やクラスページなど多岐にわたる。大宮北高校図書館を含む各図書館への収蔵はなく[36]、生徒会室に一部が保存されている。 くぬぎ大宮北高校図書館が1969年より発行していた冊子。創刊号は1969年12月発行。大宮北高校には保存がなく[37]、1 - 6、9、11 - 17、19 - 20号が埼玉県立図書館に収蔵されている。 としょかんTSUSHIN大宮北高校図書館が発行していた冊子。欠号があるが、43、78 - 90号が埼玉県立図書館に収蔵されている[38]。 MEDIA大宮北高校文芸部が発行していた冊子。1963年発行の号がさいたま文学館に[39]、1965年発行の9号が埼玉県立図書館に収蔵されている[40]。 ビジット・ジャパン観光特使 ミス・インターナショナルin大宮北2018年2月発行。表題イベント時の写真が収められている。サイズは21センチで印刷は SHIMAUMA PRINT。 三貫清水の植物1002018年3月刊行。さいたま市立大宮北高校サイエンス部地学・生物班によるもので、59ページの冊子。さいたま市立北図書館と宮原図書館、大宮北高校図書館に収蔵されている。 北高三十年の歩み10周年記念誌に続いて1985年に発行された30周年記念誌。さいたま市立中央図書館と大宮図書館に収蔵されている。大きさは26センチで155ページ。 大宮北高等学校50周年記念誌 「花咲く未来に」向かって50周年時に発行された記念誌。A4版の冊子で、さまざまな特集が組まれている。続く60周年記念誌はデジタルデータでの配布(DVD)となったため、冊子形態での刊行はこれが最後となっている。 何があったのか!?フィリピン・日本占領下-未来を創る フィリピン・日本の高校生〜聞き書き調査と翻訳2007年5月発行。大宮北高校アジア文化研究会と江藤善章と共著で発行している。江藤善章は当時大宮北高校の社会科教諭で、アジア文化研究会の顧問でもあった。アジア文化研究会は主に翻訳を担当している。 2020さいたま希望のまちプラン マンガ版-のびのびシティさいたま市 ぼくたち、わたしたちが創るさいたま市2017年1月発行。さいたま市都市戦略本部都市経営戦略部が発行した冊子で、漫画部分を大宮北高校漫画研究部と浦和南高校漫画研究部が担当している。 明日へ手わたす公共施設2019年3月発行。さいたま市財政局財政部資産経営課公共施設マネジメント係が発行した冊子で、漫画部分を大宮北高校漫画研究部が担当している。 その他交換留学大宮北高校では早くより交換留学を行っており、記録に残っているうちでは1960年4月14日から、イギリス・リバプール生まれでブリスベン在住のオーストラリア人生徒、ポール・クック君が留学した、とある[41]。彼は日本での生活に刺激を受け、後にオーストラリアで小学校教諭になった。 障害のある生徒の入学とエレベーター1971年4月、日本筋ジストロフィー協会河端静子元理事長の次女で進行性筋ジストロフィーを患っていた女子生徒Kが大宮北高校に合格し、入学した。当時Kは近隣の普通高校に受験の相談をしていたが、「車いすで入学しても学校生活を送れない」と全校が拒否した。しかし大宮北高校では「障害者差別が行われている、受験するのは当然の権利」とし受験を許可。Kは優秀な成績で合格した。その後Kは3年間の学校生活を終え無事卒業し、中央大学(通信制)を8年かけて卒業し、弁護士になるため司法試験も受けた。後にスウェーデンの国際障害者会議に出席したりNHK青年の主張コンクールの埼玉県代表に選出されるなど多方面で活躍したが、27歳でその生涯を閉じた[41]。 1980年代にも同様の障害を持った生徒が入学した。 1996年4月、筋ジストロフィーを患っている男子生徒Aが入学した。同級生はAのサポートをするほか、車いす体験を自主的に行ったり、エレベーター設置を求める署名運動を展開したりし、そのうち署名は市に提出され、2000年に既設の普通学校で初めてのエレベーターが設置された[42]。 校舎火災1977年2月13日の午前2時40分(午前3時過ぎとも)、当時の木造第二校舎から出火した[42]。日曜深夜であったため人的被害は免れたが、その分発見が遅れ、校舎は全焼し、過去の生徒会資料などが焼失した。被害損額は以下の通り。原因は不明。 この火災で68万1162円の見舞金と、各種物品が寄贈された。北高再建を目指していた生徒会本部だが、その年(翌年度)の文化祭では派手な打ち上げ花火を教師や消防署の許可なく打ち上げたほか、予餞会でも10万円の予算を超え22万円を使用したことが問題となった。
制帽運動・セーター運動1968年3月ごろから問題となっていた制帽廃止については、1969年2月、2年生の間に制帽廃止の機運が高まり、同年4月に制帽廃止に向けた学生グループが結成された。5月9日には正門でのビラ配りに加え、第1回校内アンケートを実施。5月13日に発表された結果は、廃止に賛成が544名、反対が459名、無回答が142名とやや廃止派が上回る結果だった。5月15日に再度ビラ配りをし、グループと校長・教頭が話し合い。5月17日には公聴会を実施し、生徒77名、教師2名の参加があった。5月20日にはグループと教師2名が話し合うなど、活動を活発させていく中で6月3日に行われた制帽の実態調査では校門手前で制帽を被る人が多く、所持していないのは17名のみだった[41]。 6月4日にはグループ内で意見を調整し、翌5日に主張を職員会に提出。6日には再度アンケートを実施したが結果は前回とほぼ同じだった。この日には再度教師2名とグループが話し合いをし、その後19日に第2回公聴会を実施。生徒約50名と教師5名の参加があった。こうした運動の成果もあってか、6月23日の生徒総会で生徒側が制帽自由化を決定。7月1日に制帽が廃止された場合について生徒会本部役員と生活指導委員会間で話し合いが行われた。7月17日、臨時生徒総会が開催され、制帽に変わる目印が検討された[41]。 8月5日にはついに職員会で制帽自由化が承認され、9月12日に正式発表。同年10月1日についに制帽が自由化された。その後も10月4日には夏季制服についての臨時生徒総会が行われるなど、調整が続けられた。先述の制帽に変わる目印についても、11月18日の中央委員会で校章を用いることが決定された[41]。 この運動に先立ち行われた1968年12月22日の教師アンケートでは46人が回答し、「着用すべき」が50%、「現状のまま」が28.3%、「廃止」と「未回答」がそれぞれ10.9%という結果になった。しかしこの運動を受けて行われた1969年6月28日のアンケートでは回答49人中「必要」が28.6%、「不要」が36.7%と結果が逆転した。なお「その他」は12.3%で未回答は22.3%であった。またこの運動を受けて、教師側は1泊2日の集中討議を秩父で実施した[41]。 同様の生徒運動として、1979年ごろにセーター実行委員会を中心に「セーター運動」が展開されていた。 男子ロッカー設置問題1993年に男子ロッカー(男子更衣室)を設置する動きがあった。生徒会本部のアンケートで「必要」が79%を占めたことを受け、学校への要求を行うことが可決されたが、30年近く経った2023年現在でも実現していない。 マミ外出問題1993年に、学校前にあった小売店「マミ」への昼休み中の外出許可を求める声が上がった。先述の制服自由化問題対応のため、1993年度中は議論が見送られた。2023年現在「マミ」は閉店し現存しない。 沖縄県恩納村への修学旅行1997年度から修学旅行で飛行機が使用できることになり、それまでの新幹線を利用した九州方面への修学旅行から、沖縄への転換を計画した。日本で唯一戦場となった沖縄への修学旅行を通して平和教育を行うことを考え、教師陣は前年夏に沖縄に出向いた。北谷町では修学旅行生の受け入れ経験がないと断られ、伊江島でも感触は悪く、恩納村でようやく好意的な返事を得た。恩納村は受け入れに好意的であったものの、メインの企画決定には難航した。そんな中、訪れていた恩納村コミュニティーセンターで地域住民から家庭へのホームステイを提案され、そのまま企画化した。ただ、ショートステイ先の家庭探しは難航し、全家庭のリストが大宮北高校に届いたのは出発前日、9月14日の夜であった。その後1998年の知覧・長崎を経て1999年から2014年までの16年間は毎年恩納村でのショートステイとなった。なお旅行先は2015年度からはグローバル化を目指しシンガポール・マレーシアとなっている(2021年度・2022年度は新型コロナウイルス感染症の影響で長崎・福岡へ)。 プール事故2001年8月27日、当時高校2年生の水泳部員Hが部活動の合宿中にプール事故に遭い入院。9月3日早朝に容体が急変し亡くなった。同校ではこれ以前にもプール事故で生徒を亡くしているほか、自殺や交通事故でも生徒を亡くしており、併せて50周年記念誌に掲載されている[42]。 体育館の照明落下2010年代後半に行われた文化祭で、ステージ発表中に体育館の水銀灯が客席に落下した。落ちた場所が空席だったため怪我人は出なかったが、鉄製の椅子が大きくひしゃげ、使用不能になった。生徒からは安全性を問う声が多く上がった。 アクセス脚注出典
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