アイゼンヒュッテンシュタット
アイゼンヒュッテンシュタット (Eisenhüttenstadt)は、ドイツのブランデンブルク州オーダー=シュプレー郡の都市。人口は約24,000人。 地理ポーランドとの国境であるオーデル川に面している。アイゼンヒュッテンシュタット近辺から、オーデル川と首都ベルリンを流れるシュプレー川とを結ぶオーデル・シュプレー運河が分かれている、ベルリンからは120キロメートルほど離れている。 歴史元々アイゼンヒュッテンシュタットのあった場所は第二次世界大戦の終わりまで都市は存在せず、近くにフュルステンベルク (オーダー)(Fürstenberg (Oder))とシェーンフリース(Schönfließ)という2つの小さな集落があるのみであった[2]。 戦後この地はドイツ民主共和国(東ドイツ)領となったが、東ドイツ政府によって製鉄所を中心として、周りに居住地域を配した計画都市を建設することになり、大都市から離れ、水運や鉄道の便にも恵まれたこの地が選ばれた[2]。 当初は「製鉄コンビナート近郊都市」と暫定的に呼ばれていたが、1953年にソビエト連邦の最高指導者スターリンが没した際、彼を記念して「スターリンの都市」を意味する「スターリンシュタット (Stalinstadt)」と命名された[3] 。
しかし、1956年にソ連でスターリン批判が起こり、スターリンへの個人崇拝が否定されるようになったため、1961年に「製鉄所の都市」を意味する「アイゼンヒュッテンシュタット」に改称され[3](なお、スターリンの語も「鋼鉄」の意味を含む)、その際にフュルステンベルクとシェーンフリースもアイゼンヒュッテンシュタットに吸収合併された[2]。 以後、製鉄コンビナートである「東部製鉄コンビナート」(Eisenhüttenkombinat Ost. 通称:EKO 2017年現在はアルセロール・ミッタルグループのアルセロール・ミッタル・アイゼンヒュッテンシュタット)の労働者のための住宅が整備されていき、式典が開催できる巨大広場・マギストラーレと呼ばれる大通り、7つの居住区、商業施設などが整備され、発展を遂げた。1960年代、この都市の労働者は優遇され、普通では10年は待たないと購入出来なかった大衆車・トラバントが5-6年で手に入り、自転車なども不足しなかったという[3]。第二次大戦直後には人口わずか1,200人であった地域が、1988年には人口5万3千人を擁する工業都市になっていた[3]。 しかし、1989年に東ドイツの社会主義統一党・一党独裁政権を率いていたホーネッカー書記長が東欧革命のうねりの中で失脚し、同年11月にはベルリンの壁が崩壊した。翌1990年に東西ドイツが統一すると、アイゼンヒュッテンシュタットはその存在意義を失った[3]。統一の翌年の1991年には3つの溶鉱炉の操業が停止された[2]ことなどから人口が流出し、2008年には3万4千人にまで減少したため、東ドイツ時代の集合住宅を取り壊し、都市の縮小化を進めている[3]。その際は、1987年に完成した第7居住区から取り壊された。一番新しい居住区から取り壊されたのは、第7居住区が市の中心部から遠く、また東ドイツ末期は経済状態が悪化していたため、建設された住宅も他の地区より劣悪であったためである[2]。
経済交通文化
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