1888年までチャップマンはホワイトチャペルにあるコモン・ロッジングハウス(英語版) (生活困窮者向けの安価な共同住宅) で下宿していた。時折、煉瓦工労働者の「恩給生活者」エドワード・スタンリー (英: Edward "the Pensioner" Stanley) と一緒に暮らした。チャップマンはクローシェ編みの仕事や椅子の背覆い作り、花売りで収入を得ていた。収入が足りないときは臨時の売春で補った。ある知人は、チャップマンはしらふならばとても親切で勤勉だが、酔っ払う姿をよく見かけたと語った[3]。
ロッジングハウスの管理人代理のティム・ドノヴァン (英: Tim Donovan) と夜警のジョン・エヴァンズ (英: John Evans) によると、1888年9月8日午前1時45分頃、チャップマンは下宿代が無かったため、通りでいくらか金を稼ごうとして外出したという[6]。検死審問で目撃者の一人であるエリザベス・ロング (英: Elizabeth Long) 夫人[7]は、午前5時30分頃にスピタルフィールズのハンベリー・ストリート29番地の裏庭のすぐ向こうで、チャップマンが男性と会話していたと証言した。ロングによると、その男性は40歳以上で、チャップマンより少し背が高く、髪が黒く、外国人で、落ちぶれたが体面を繕っているという風な外見をしていたという[8]。鹿撃ち帽と黒色の外套を身につけていた[8]。ロングが目撃した女性が本当にチャップマンであれば、ロングは犯人を除けばチャップマンの生きている姿を最後に目撃した人物の可能性が高い。午前6時直前、29番地に住む市場の運搬人のジョン・デーヴィス (英: John Davis) がチャップマンの遺体を発見した。チャップマンは裏庭の戸口の近くの地面に横たわっていた。その裏庭のある家の住人の息子のジョン・リチャードソン (英: John Richardson) はブーツから革のだぶついた部分を取ろうとして午前5時直前まで裏庭にいた[9]。また、大工のアルバート・カドシュ (英: Albert Cadosch) は午前5時30分頃にハンベリー・ストリート27番地にある近隣の庭に入り、そのときに庭の中で人の声を聞いた後、柵に何かが倒れ込む音を耳にした[10]。
裏庭からは、チャップマンが肺の調子を整えるために服用していた丸薬2粒、破れた封筒の一部、モスリンの断片、櫛が回収された。チャップマンが以前に身につけていた真鍮のリングは回収されなかった。チャップマン自身が質に入れたか、盗まれた可能性がある[11]。リングを求めてその地域の質屋全てを捜索したが、成功しなかった[12]。封筒にはサセックス連隊のクレストが描かれており、陸軍恩金生活者のふりをしていたスタンリーとの関係性がしばらくの間疑われていた。しかし、後にクロッシンガムの下宿屋を探った際にこの封筒は捜査から除外された。チャップマンが封筒を丸薬の容器に使い回していただけだったのである[13]。裏庭でファージング硬貨2枚が発見されたという報道があったが、現存する警察の記録にはそのような記述はない[12]。ロンドン警視庁所属の地元の警部補で、H地区ホワイトチャペル担当のエドマンド・リード(英語版) (英: Edmund Reid) は1889年の検死審問で硬貨について言及したと記録されており、ロンドン市警察の臨時本部長のヘンリー・スミス (英: Henry Smith) も自身の回顧録で言及している[9]。しかし、スミスの回顧録は内容が信頼できず、劇的な演出を意図した装飾があるうえに、事件から20年以上後に書かれている[14]。スミスは、当時の医学生たちはファージング硬貨を綺麗に磨いて、何も疑っていない売春婦にソブリン金貨だと言って渡していたことから、ファージング硬貨が存在するということは犯人は医学生であることが示唆されていると主張した。しかし、イーストエンドでの売春婦の価値はソブリン金貨よりもかなり低かった可能性が高い[9]。
犯行現場に最初に来た警察官はH地区のジョセフ・ルニス・チャンドラー (英: Joseph Luniss Chandler) 警部補だったが、9月15日にスコットランドヤードのドナルド・スワンソン(英語版) (英: Donald Swanson) 警部に全体の指揮権が与えられた[15]。チャップマン殺害はすぐにその地域で起きた複数の類似の殺人事件と結び付けられた。特に1週間前に発生したメアリー・アン・ニコルズ殺害との類似性は顕著だった。ニコルズもチャップマンと同様に、喉が切り裂かれ、腹部に傷があり、似た大きさとデザインの刃物が使用された。スワンソンは、即座に全てのコモン・ロッジングハウスを捜索し、その日の朝に手や服が血で汚れているなどの怪しい状態だった人が入ってこなかったか確認したと報告した[16]。その日の後にチャップマンの遺体はホワイトチャペル遺体安置所に運ばれた。遺体の運搬に使用されたのは警察の傷病者運搬用の手押し車で、ちょうど棺が1つ入る大きさのものである。ニコルズの遺体の運搬にも同じものが使用され、エドワード・バダム(英語版) (英: Edward Badham) 巡査部長が運搬を担当した[17]。バダムはその後の検死審問で最初に証言した。
チャップマンの喉は左から右に切られ、内臓を取り出されていた。腸が腹部から取り出され、両肩に投げ掛けられていた。死体安置所での調査で、子宮の一部が無くなっていることが判明した。舌が突き出て、顔が腫れ上がっていたことから、フィリップス医師は、チャップマンは喉を切られる前に首に巻いていたハンカチで窒息させられた可能性があると推測した[22]。遺体を運搬するときに付くであろう裏庭へ続く血の跡が無いことから、フィリップスはチャップマンが遺体の発見された場所で殺害されたことを確信していた。チャップマンが肺の病気を長年患っていたこと、死亡時にはしらふだったこと、少なくとも死の数時間前はアルコール飲料を飲んでいなかったことをフィリップスは証言した[23]。また、フィリップスは、15センチメートルから20センチメートルの長さの刃物を使って1回の動作で生殖器を切り取っていることから、殺人者には解剖学の知識があるに違いないと考えていた[24]。しかし、殺人者が外科の技術を有しているというこの意見は他の専門家により退けられた[25]。遺体は犯行現場では十分に調査されていなかったため、実際には死体安置所の職員が臓器を取り出した可能性があったためである。既に切り開かれた遺体から臓器を抜き取れば外科標本として売ることができた[26]。バクスター検視官の約定では、あるアメリカ人がロンドンの医学校で子宮の試料の売買を持ちかけたことを根拠に、チャップマンは子宮を入手する目的で殺害された可能性を持ち出した[27]。医学誌『ランセット』はバクスターの説を痛烈に否定し、全くあり得そうに無く不条理なことであると指摘し、非常に大きな判断の誤りであると述べた[28]。医学誌『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル』も同様に否定的で、名前は明かさなかったが、子宮の試料を求めていた医師は非常に評判の良い人物で、殺人の18ヶ月前にこの国を去っていたと報じた[29]。バクスターは自説を取り下げ、二度と言及しなかった[30]。シカゴ・トリビューンではそのアメリカ人の医師はフィラデルフィアから来ていたと主張されており[31]、後に著述家のフィリップ・サグデン (英: Philip Sugden) は、件の医師は悪名高いフランシス・タンブルティ(英語版) (英: Francis Tumblety) ではないかと推測した[32]。
アニー・チャップマンは1888年9月14日に埋葬された。その日の午前7時、ハンベリー・ストリートの葬儀屋のH・スミス (英: H. Smith) が出した葬儀用車はモンタギュー・ストリートにあるホワイトチャペル死体安置所へ向かった。最高の秘密厳守が守られており、葬儀の手配については葬儀屋や警察、チャップマンの親類以外は知らなかった。遺体は黒い掛け布で覆われた楡材の棺の中に入れられ、葬儀を手配したスピタルフィールズの葬儀屋のハリー・ホーズ (英: Harry Hawes) の元へ送られた。人々の関心を惹かないように参列者を運ぶ馬車を伴わずに葬儀用車は進み、午前9時、遺体をロンドンのフォレストゲートのセバート・ロードにあるマナー・パーク共同墓地へ運んだ。チャップマンはその墓地の公共用の墓に埋葬された。
ジョン・リチャードソンの革のエプロンが庭の蛇口の下に置かれていた。リチャードソンの母親がその場所でエプロンを洗ってから置き去りにしていたのである[35]。リチャードソンは警察から徹底的に捜査されたが、捜査の対象から外された[36]。このエプロンに関する歪曲された報道は、「レザー・エプロン」と呼ばれる地元のユダヤ人が犯人であるという噂を助長したようだ[37]。マンチェスター・ガーディアンは、警察はどんな情報も秘密にしているが、その関心は特に「レザー・エプロン」に向いていると考えられると報じた[38]。記者たちは犯罪捜査部 (CID) が捜査の詳細を人々に明かそうとしないことに鬱憤が溜まっていた。そこで、真実か疑わしい記事を書いて報道することに訴えかけた[39]。粗野なユダヤ人のステレオタイプを使って想像上の「レザー・エプロン」を描写し、新聞に掲載した[40]。しかし、ライバル紙の記者たちは記者の空想の産物として退けた[41][42]。ポーランド系ユダヤ人のジョン・パイザー (英: John Pizer) は革から履物を作る仕事をしており、「レザー・エプロン」という名前で知られていた[43]。警察はパイザーを逮捕したが、捜査に当たっていた警部補は現状では証拠が無いと報告していた[44]。結局、アリバイが確認されてすぐに釈放された[45]。パイザーはチャップマンの検死審問に証人として呼ばれ、自らの無実を証明し、「レザー・エプロン」が殺人者であるという誤った手掛かりを打ち砕いた[46]。パイザーは自身を殺人者として報じた少なくとも1社の新聞社から金銭的補償を得ることに成功した[47]。メディアが好んで用いた殺人者の通称は、すぐに「レザー・エプロン」から「ジャック・ザ・リッパー」に取って代わった[48]。
警察は他にも数名逮捕した。船のコックのウィリアム・ヘンリー・ピゴット (英: William Henry Piggott) は、女性を嫌悪する発言をしながら血の染みの付いたシャツを所有していたところを発見され、その後に拘留された。ピゴットは、ある女性に噛み付かれて負傷し、そのときに出た自分の血が付いているだけだと主張した[49]。ピゴットは捜査を受けたが、容疑が晴れて釈放された[50]。スイス人の肉屋のジェイコブ・アイゼンシュミッド (英: Jacob Isenschmidt) は、パブの女主人のフィディモント (英: Fiddymont) 夫人が説明した、殺人のあった朝に目撃した血の染みで汚れた怪しい挙動の男の特徴と一致していた。アイゼンシュミッドは橙褐色の大きな髭がある独特の外見をしており、精神障害の病歴があった。アイゼンシュミッドは精神病院で拘留された。ドイツ人の理髪師のチャールズ・ルドウィグ (英: Charles Ludwig) は、売春婦を襲った後すぐにコーヒーの売店で男を刺そうとして逮捕された。2人の拘留中に新たな殺人事件が発生したため、2人は無実と判明した[51]。警察の資料や当時の新聞の報道で被疑者として名前の挙がった人物に、フリードリッヒ・シューマッハー (英: Friedrich Schumacher)、行商人のエドワード・マッケナ (英: Edward McKenna)、精神病患者の薬剤師のオズワルド・パックリッジ (英: Oswald Puckridge)、発狂した医学生のジョン・サンダーズ (英: John Sanders) がいるが、彼らが犯行を犯したという証拠は無かった[52]。
^Evans and Skinner, The Ultimate Jack the Ripper Sourcebook, pp. 50–51, 69
^Evans and Rumbelow, p. 66; Evans and Skinner, The Ultimate Jack the Ripper Sourcebook, p. 73; Fido, pp. 28–30; Wilson and Odell, pp. 27–28
^新聞での報道ではロングをダレル (英: Darrell) 夫人と呼称していた。そのため、マーティン・ファイドーなどの著述家はダレルとロングが別人であると勘違いした (参照: Fido, pp. 30–31, 94)。しかし、警察の記録には、ダレルはロングの別名であると記されている (HO 144/221/A49301C f. 136 <出典: Evans and Rumbelow, p. 289>)。
^ abBegg, p. 153; Cook, p. 163; Evans and Skinner, The Ultimate Jack the Ripper Sourcebook, p. 98; Marriott, pp. 59–75
^Cook, p. 221; Evans and Rumbelow, pp. 71–72; Evans and Skinner, The Ultimate Jack the Ripper Sourcebook, pp. 67–68, 87; Marriott, pp. 26–29; Rumbelow, p. 42
^J地区犯罪捜査部のジョセフ・ヘルソン (英: Joseph Helson) 警部補による報告、ロンドン警視庁の記録より、MEPO 3/140 ff. 235–8 (出典: Begg, p. 99 and Evans and Skinner, The Ultimate Jack the Ripper Sourcebook, p. 24)
^Begg, p. 157; Cook, pp. 65–66; Evans and Skinner, The Ultimate Jack the Ripper Sourcebook, p. 29; Marriott, pp. 59–75; Rumbelow, pp. 49–50
^フレデリック・アバーライン (英: Frederick Abberline) 警部補による報告、1888年9月19日 (出典: Evans and Skinner, The Ultimate Jack the Ripper Sourcebook, p. 64)
参考文献
Begg, Paul (2003). Jack the Ripper: The Definitive History. London: Pearson Education. ISBN0-582-50631-X
Cook, Andrew (2009). Jack the Ripper. Stroud, Gloucestershire: Amberley Publishing. ISBN978-1-84868-327-3
Evans, Stewart P.; Rumbelow, Donald (2006). Jack the Ripper: Scotland Yard Investigates. Stroud: Sutton. ISBN0-7509-4228-2
Evans, Stewart P.; Skinner, Keith (2000). The Ultimate Jack the Ripper Sourcebook: An Illustrated Encyclopedia. London: Constable and Robinson. ISBN1-84119-225-2
Evans, Stewart P.; Skinner, Keith (2001). Stroud, Gloucestershire: Sutton Publishing. ISBN0-7509-2549-3
Fido, Martin (1987). The Crimes, Death and Detection of Jack the Ripper. Vermont: Trafalgar Square. ISBN978-0-297-79136-2
Marriott, Trevor (2005). Jack the Ripper: The 21st Century Investigation. London: John Blake. ISBN1-84454-103-7
Rumbelow, Donald (2004). The Complete Jack the Ripper: Fully Revised and Updated. Penguin Books. ISBN0-14-017395-1
Wilson, Colin; Odell, Robin (1987). Jack the Ripper: Summing Up and Verdict. Bantam Press. ISBN0-593-01020-5