この項目では、ルーマニアの都市について説明しています。イスラエルの都市については「アラド (イスラエル) 」をご覧ください。
アラド (ルーマニア語 : Arad , /a'rad/ 、ハンガリー語 : Arad , セルビア語 : Арад , Arad )は、ルーマニア 西部アラド県 の都市。県都でもある。ムレシュ川 に面する。重要な産業中心地であり、交通の要所であり、ルーマニア正教会 の主教座が置かれている。
統計
2006年の調査によると、アラドは191,473人の人口があった。ルーマニア人 83.66%、ハンガリー人 11.94%、ロマ人 1.66%、ドイツ人 1.52%である。
宗教別で最大の信徒を抱えるのは正教会 の72.7%で、次いでカトリック 13.1%、バプテスト教会 4.5%、ペンテコステ派 4.4%、改革派教会 3.1%、東方典礼カトリック教会 1.1%である。
歴史
アラドは11世紀の記録に初めて登場する。1241年にハンガリー王国 がモンゴル人 侵攻を受けると、防御用要塞が必要とされ、13世紀の半ばにはソイモス、シリア、デズナにおいて石造要塞が建設された。オスマン帝国 が1551年にハンガリーからこの地域の支配権を奪い、1699年のカルロヴィッツ条約 まで統治した。1699年以後、アラドはハプスブルク家 に支配された。1720年のデータによると、市人口はドイツ人世帯177、セルビア人世帯162、ハンガリー人世帯35から構成されていた。
1763年から1783年にかけ、新たな要塞が建てられた。これらの要塞の小ささから、1848年革命 (独立戦争とも)の闘争でハンガリー人が並はずれた大きな役割を担ったことを証明している。市内には、独立戦争の記念物からなる美術館がある。
オーストリア帝国軍の将軍ベルガーによって1849年7月終わりまで勇敢に守られたが、アラドはハンガリー反乱側が獲得した。反乱側は革命の後半に本部をアラドに置いた。革命家コシュート・ラヨシュ が有名なハンガリー独立を宣言した地は(1849年8月11日)、アラドであった。彼はここで軍の最高位と権力とをギェルゲイ・アルツール(Görgei Artúr )に譲り渡した。
要塞は、シリアでギェルゲイがロシア に降伏したすぐ後にオーストリアが再征服した。今は武器庫として使われている。
オーストリアの将軍ハイナウの命令により、13人の反乱側将軍が1849年10月6日にアラドで処刑された。彼らは『アラドの13犠牲者』として集団で知られ、その時からアラドはハンガリー人にとってのゴルゴタの丘 とみなされるようになった。アラド市内の広場の一つは、13犠牲者を記念する像が建っている。
アラドは大きな経済発展を続けた。1834年には、オーストリア皇帝フランツ1世 によって帝国自由都市 にされている。
アラドゥル・ノウ(ルーマニア語:Aradul Nou / ハンガリー語:Újarad 、新アラド)は、アラドの郊外であるムレシュ川の対岸にあり、橋でつながっている。17世紀の対トルコ戦争の最中にアラドゥ・ノウは建てられた。アラドの要塞がトルコによって陥落した後、新たな定住地の核としてできたものである。現在は、アラド市内の一区画となっている。
1910年、アラドは63,166人の人口を抱えていた。73%がハンガリー人、16.2%がルーマニア人、7%がドイツ人であった [ 1] 。
年代記録
経済
豊富な産業と商業の伝統を持つことから、アラドはルーマニアで最も繁栄する都市の一つである。多くの投資がされ、アラドは経済ブームに湧いている。
衣類・織物製造業、食品製造業、家具製造、自動車部品など製造業が盛んである。
街区
チェントル(Centru),
ミカラカ(Micălaca),
シェガ(Şega)
アラドゥル・ノウ(Aradul Nou),
ポルトゥラ(Poltura),
グラディシュテ(Grădişte),
ガイ(Gai),
ブジャク(Bujac),
スブチェターテ(Subcetate),
ドラガシャニ(Drăgăşani),
アルファ(Alfa),
プルネァーヴァ(Pârneava),
スンニコラウル・ミク(Sânnicolaul Mic),
カダシュ(Cadaş),
アウレル・ヴライク(Aurel Vlaicu),
交通
アラドはヨーロッパ横断道の最重要地点であり、ルーマニア西部における鉄道輸送の接合点である。アラドのダウンタウンから4キロ離れた場所にあるアラド国際空港 には、貨物ターミナルがある。
観光
歴史的建造物
イオアン・スラヴィチ古典劇場
アラドの要塞都市 - 18世紀半ばに建てられたヴォーバン 式要塞。かつては刑務所として使われたこともある
行政官官邸 - 1874年完成。ルネサンス様式 建築
イオアン・スラヴィチ古典劇場(Ioan Slavici Classical Theatre ) - 1874年建設。新古典主義 建築
ノイマン邸 - 1891年建設。折衷主義
セナド邸 - 1894年建設。折衷主義と新古典主義建築
国立銀行 - 1906年建設。新古典主義建築
ボフシュ邸(Bohuş Palace ) - 1910年建設。ウィーン分離派 。アラド初の鉄筋コンクリート建築。
サンタイ邸(Szantay Palace ) - 1911年建設。ウィーン分離派
文化宮殿 - 1913年建設。新古典主義建築、ゴシック建築、ルネサンス建築、ギリシア建築
クロシュチャ通り(Cloşca Street ) - ウィーン分離派
高等教師訓練校(Clădirea Preparandiei) - トランシルバニア出身のルーマニア語教師の学校として初めて建てられた
旧劇場 - 1817年建設。ルーマニア最古の石造劇場
記念像
聖ネポムクのヨハネ像 - 1729年建立。バロック様式
三位一体像 - 1738年から1740年の間アラドで流行したペスト を記念する
ルーテル会派教会
宗教建築
聖ペータル・聖パヴレ教会 - セルビア正教会 の教会。初期バロック建築
聖シメオン修道院 - 18世紀建設。バロック建築
聖パドヴァのアントン教会 - カトリックの教会。1904年完成。ルネサンス建築
洗礼者ヨハネ聖堂 - 1865年に完成したカトリック教会。バロック様式
聖パドヴァのアントン教会
教育
ヴァシレ・ゴルディシュ大学(Vasile Goldiş) - 1990年創立の私立大学
アウレル・ヴライク大学(Aurel Vlaicu) - 1991年創立の公立大学
姉妹・友好都市
姉妹都市
友好都市
スポーツ
脚注
^ Atlas and Gazetteer of Historic Hungary 1914, Talma Kiadó
参照
外部リンク