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アルタン・ハーン

アルタン・ハーン

アルタン・ハーン(Altan Qaγan、中国語: 俺答汗モンゴル語: Алтан Хаан1508年1月2日[1] - 1582年1月13日[2])は、モンゴル帝国北元)を支配したハーンダヤン・ハーンの孫(在位:1551年 - 1582年)。「アルタン」は「黄金」を意味する。

生涯

前半生

正德2年11月30日(1508年1月2日)、ダヤン・ハーンの三男・バルス・ボラド・ジノン(サイン・アラグ・ハーン)の次男として生まれる。母はホソイ・タブナンの娘・ボダンである。

明正德14年(1519年)に父が死去すると、その後を継いだ。この頃は、内モンゴルのトメト部を治める小領主に過ぎなかった。明嘉靖3年(1524年)に祖父が死去すると、その後を継いだボディ・アラグ・ハーンの宗主権を認め、その治世に協力した。

明嘉靖17年(1538年)、内乱鎮圧の功績により、チンギス・ハーンを形容する際に使われる「ソート」(suu tu ; 天恵をもつ)の称号を与えられた。明嘉靖21年(1542年)には遠征での功績により、「トゥシェート・セチェン・ハーン」(Tösheetü Sechen Khan ; 補佐する賢明なハーン)の称号を与えられ、正統ハーンのボディ・アラグ・ハーンを補佐する次席ハーンとなる。これにより、内モンゴル高原の西半分に遊牧するモンゴル右翼3万戸の最有力指導者となった。明嘉靖29年(1550年)にも明に侵攻し、北京にまで迫った(庚戌の変)。

即位

アルタン・ハーンと彼のハトゥン

明嘉靖26年(1547年)にボディ・アラグ・ハーンが死去し、その後を継いだダライスン・ゴデン・ハーンは、アルタンの勢力拡大を恐れて、興安嶺山脈の南東側に逃亡した。このため、空白地帯となった牧地はアルタンの弟・ハイスハル・フンドゥレン・ハーンとアルタンの長子・ドーゥレン・センゲ・ホンタイジが勢力を伸ばし、アルタンの勢力はさらに拡大した。そしてこれらの勢力拡大を背景にして、明嘉靖30年(1551年)には正統ハーン位に推戴され、即位したのである。

その後も明・モンゴルで積極的な活動を続けて勢力を拡大する。明嘉靖31年(1552年)からはオイラトに侵攻してカラコルムを支配下に置き、チベットカザフスタン方面にも進出した。

しかし全盛期は長くは続かず、明隆慶4年(1570年)に孫のパカンナギが明に投降したのを契機に明の宣大総督である王崇古と和平交渉を行ない、明隆慶5年(1571年)に明との和平条約を締結した(隆慶封貢/隆慶和議)。このとき、明から順義王に封じられ、一族の者や配下にも明の官職が与えられた。そして朝貢を許され、その地位に応じて年金が与えられた。しかしモンゴルの庶民は、明に侵攻して略奪することで多くの収入を得ていたため、この和平で略奪行為が不可能になり、不満を持ち始めたという。

最期

明萬曆8年(1580年)頃から病に倒れ、明萬曆9年12月19日(1582年1月13日)に死去した、75歳没。長男のドゥーレン・センゲ・ホンタイジがハーン位につき、明から次の順義王と認められた。しかしアルタンの死後、モンゴルは分裂してゆくようになる。

人物

  • 祖父に劣らぬ智勇兼備の人物で、その才腕と器量でモンゴルを再統一した評価は高い。
  • 信心深い一面があり、チベット方面に進出した際、仏教に帰依している。のちに青海に迎華寺を建立し、ダライ・ラマ3世を迎えた。このため、モンゴル全土にチベット仏教が広まり、アルタンの曾孫はダライ・ラマ4世となっている。
  • 1542年山西省に侵攻した際、男女20万人を虐殺し、さらに200万の家畜を略奪し、8万軒を焼き払うという残酷さを見せている。1550年に北京に迫った際、明軍を北京に籠城させるまでに追いつめたこともある。
  • 武勇ばかりが目立つが、亡命漢人の官僚、白蓮教徒、さらに明から生活苦で逃亡してきた農民などを積極的に受け入れ、彼らの文化を受け入れてフフホト(内モンゴル自治区の首都)など多くの都市を建設するという優秀な内政手腕も持ち合わせていた。
  1. ^ 楊紹猷 (1992年3月) (中国語). 《俺答汗評傳》. 中華人民共和國: 中国社会科学出版社. pp. 第10頁. ISBN 9787500410027. https://www.google.com.tw/books/edition/%E4%BF%BA%E7%AD%94%E6%B1%97%E8%AF%84%E4%BC%A0/qJ45AAAAMAAJ?hl=zh-TW&gbpv=1&bsq=%E4%BF%BA%E7%AD%94%E6%B1%97%E7%94%9F%E6%96%BC%E8%97%8F%E6%9B%86&dq=%E4%BF%BA%E7%AD%94%E6%B1%97%E7%94%9F%E6%96%BC%E8%97%8F%E6%9B%86&printsec=frontcover. "①據蒙文抄本《俺答汗傳》第4頁上記載,俺答汗生於藏曆「火吉祥母兔年十二月三十牛日」。經北京圖書館藏曆專家黃明信先生驗證,此紀年無錯。他認為藏地各時代各教派使用的藏曆紀年不一,格魯派使用蒲派歷算,薩迦派使用薩迦派歷算。上述紀年如按蒲派推算,應為正德三年正月初一(合公元1508年2月1日);如按薩迦派推算,應為正德二年十一月三十日(合公元1508年1月2日)。因薩迦派歷算傳入蒙古最早,且影響深遠,直至清康熙元年(1662)成書的《蒙古源流》還使用薩迦派曆法。而《俺答汗傳》成書於明萬曆三十五年(1607),早於《蒙古源流》半個世紀,格魯派也剛傳入蒙古,故上述紀年當按薩迦派推算,應為正德二年十一月三十日(公元1508年1月2日)。" 
  2. ^ 楊紹猷 (1987年1月). 中國社會科學院民族研究所民族歷史研究室. ed. “〈太平卒年考〉” (中国語). 《民族史論叢‧第一輯》 (中華人民共和國: 中華書局有限公司): 第129頁. https://www.google.com.tw/books/edition/%E6%B0%91%E6%97%8F%E5%8F%B2%E8%AE%BA%E4%B8%9B/jDlyAAAAIAAJ?hl=zh-TW&gbpv=1&bsq=%E5%8F%88%E5%A6%82,%E3%80%8A%E6%98%8E%E5%8F%B2%C2%B7%E9%9E%91%E9%9D%BC%E4%BC%A0%E3%80%8B%E4%BA%91,+%E2%80%9C+(%E4%B8%87%E5%8E%86)%E5%8D%81&dq=%E5%8F%88%E5%A6%82,%E3%80%8A%E6%98%8E%E5%8F%B2%C2%B7%E9%9E%91%E9%9D%BC%E4%BC%A0%E3%80%8B%E4%BA%91,+%E2%80%9C+(%E4%B8%87%E5%8E%86)%E5%8D%81&printsec=frontcover. "第一,《明史》為了文字的簡練,往往作概括性的記述,有時將不同年代發生的事件記在同一年代之下,前一事件是因,後一事件是果,年代指的是後一事件發生的時間。又如,《明史·韃靼傳》云,「(萬曆)十年春,俺答死,帝特賜祭壇,彩幣十二表里,布百匹,示優恤。實際上萬曆十年春(《明神宗實錄》作十年二月)是明廷得到邊臣的報告後,下達「賜祭」的時間,並不是俺答汗的卒年。《萬曆武功錄》卷八和蒙文抄本《俺答汗傳》關於俺答的卒年記載完全一致,為萬曆九年(辛巳年)十二月十九日(即公元一五八二年一月十三日)。" 
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