『アルノルフィーニ夫妻像』(アルノルフィーニふさいぞう (蘭: Portret van Giovanni Arnolfini en zijn vrouw、英: The Arnolfini Portrait))は、初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクが1434年に描いた絵画。合計3枚のオークのパネル(板)に油彩で描かれたパネル画である。日本では『アルノルフィーニ夫婦像』、『アルノルフィーニ夫妻の肖像』などと呼ばれることもあり、精緻な油絵の嚆矢として、西欧美術史で極めて重要視されている作品である。作品は、ロンドン・ナショナル・ギャラリーに所蔵されている。
鏡の上に「ヤン・ファン・エイクここにありき。1434年。 (Johannes de eyck fuit hic. 1434 )」と日付つきの署名がある。この署名は当時の格言や箴言を大きな文字で壁に書いたかのようにも見える。他に現存しているファン・エイクの署名は絵画が収められている木製の額縁にだまし絵風に書かれており、あたかも額縁に署名が彫刻されているかのように書かれている[10][12]。
1857年に出版された、ジョゼフ・アーチャー・クロウ(英語版)とジョヴァンニ・バッティスタ・カヴァルカセレ(英語版)の書籍が、16世紀のマルグリット・ドートリッシュの財産目録に「寝室にいるアルノル-ル-フィン (Hernoul le Fin) と彼の妻」と記載されている絵画と『アルノルフィーニ夫妻像』とを結びつけた、最初の文献である。クロウとカヴァルカセレはこの書籍の中で、『アルノルフィーニ夫妻像』に描かれているのはジョヴァンニ・(ディ・アリーゴ・)アルノルフィーニとその妻だとしている[14]。4年後に出版されたジェームズ・ウィールの書籍でも、このクロウとカヴァルカセレの説に賛同しており、さらにジョヴァンニの妻の名前はジェンヌ、またはジョヴァンナ・チェナーミであるとした[15]。これ以来20世紀の終わりまで、『アルノルフィーニ夫妻像』に描かれているのは、ジョヴァンニ・ディ・アリーゴ・アルノルフィーニとその妻ジェンヌ・チェナーミだとする説が主流となっていた。しかしながら、1997年になって、ジョヴァンニ・ディ・アリーゴ・アルノルフィーニとジェンヌ・チェナーミが結婚したのは、『アルノルフィーニ夫妻像』に記された制作年の13年後、ファン・エイクが死去した6年後の1447年であることが判明した[16]。現在では、描かれているのはジョヴァンニ・ディ・アリーゴ・アルノルフィーニの従兄弟のジョヴァンニ・ディ・ニコラ・アルノルフィーニ夫妻だと考えられている。ジョヴァンニ・ディ・ニコラ・アルノルフィーニは二度結婚しており、この作品に描かれている女性が最初の妻なのか二度目の妻なのかははっきりしない。近年唱えられている説によると、最初の妻の名前はコスタンツァ・トレンタで、1433年2月に死去したといわれている[17]。もし描かれている女性が最初の妻で1433年に死去したとすれば、1434年に描かれた『アルノルフィーニ夫妻像』は、存命中の人物と死去した人物を同時に描いた珍しい肖像画ということになる。ジョヴァンニ・ディ・アリーゴ・アルノルフィーニとジョヴァンニ・ディ・ニコラ・アルノルフィーニは、どちらもルッカ出身のイタリア人商人で、1419年ごろからブルッヘに滞在していた[18]。『アルノルフィーニ夫妻像』に描かれている男性はファン・エイクの友人だったといわれ、現在ベルリンの絵画館が所蔵する、別の肖像画が残っている[19]。
パノフスキーが発表した論文以降、パノフスキーが唱えた説が正しいかどうかについて多くの議論が巻き起こった。美術史家エドウィン・ホールは、この作品はアルノルフィーニの婚約の様子を描いており、結婚を描いたものではないと考えた。美術史家マーガレット D. キャロルは1993年の論文「神の御名と慈愛において - ヤン・ファン・エイク作『アルノルフィーニ夫妻像』(In the Name of God and Profit: Jan van Eyck's Arnolfini Portrait.)」で、結婚した夫婦の肖像画であり、夫が妻に法的権限を与えたことを暗示しているとした[22]。さらにキャロルは、アルノルフィーニが優れた資質の商人で、ブルゴーニュ公宮廷に出入りできる人間だったことを表現した作品でもあるとし、次のような説を唱えている。描かれている二人はすでに結婚しており、妻が自ら、あるいは夫の代理人として商取引を行う法的権限を夫が委任したことが、妻に向って掲げた夫の手で表現されている。ただし、絵画そのものに法的効力があるわけではなく、法的効力を絵画に表現しようとした、ファン・エイクのちょっとした思いつきによる作品だった。凸面鏡に映る二人の人物は、夫が法的権限の委託を宣誓したことの立会人であり、ファン・エイクは自身が立ち会ったことの証明として、壁面に署名を記したのである[23]。
ジャン・バプティスト・ビドーはパノフスキーの説にある程度賛同しており、1986年の「象徴の真実 - ヤン・ファン・エイク作アルノルフィーニ夫妻像に隠された象徴性 (The reality of symbols: the question of disguised symbolism in Jan van Eyck's Arnolfini Portrait )」で、『アルノルフィーニ夫妻像』は婚姻契約書として描かれたとしている。しかしながら、パノフスキーがさまざまなモチーフに見出した象徴性については否定している。「それほどまでに大量の象徴性が隠されているとは考えられない。描かれているモチーフは当時のありふれたものばかりで、この作品に見られる写実性と調和している。画家が本当はどのような意味を込めて描いたのかなどを証明しようとするのは無意味だ」としている[24]。
ベッドの支柱には妊婦と出産の守護聖人聖マルガリタと思われる彫刻像がある[37]。聖マルガリタは陣痛の苦しみや不妊から女性を救うとされている聖人である。他に、聖マルガリタではなく、主婦の守護聖人聖マルタの彫刻像とする説もある[38]。支柱に吊り下げられたブラシは家事の象徴であり、さらに鏡の両脇に対照的に配置されているブラシと、花婿に結婚祝いとしてよく贈られていた石英のロザリオは、キリスト教義の「祈りと労働 (ora et labora)」を暗示している。ジャン・バプティスト・ビドーは、諺で「不道徳を払いのける」とされる箒が貞節の象徴であるとしている[39][40]。
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