1907年、彼女は踊りに興味を持ったことから巡業劇団に入団する。ヘンリック・イプセンの『幽霊』、ベニート・ペレス・ガルドスの『ラ・ロカ・デ・ラ・カサ』、フロレンシオ・サンチェスの『ロス・ムエルトス』といった上演作に出演を果たす。1908年に再婚してバスティンザに住んでいた母親と一緒に暮らすようになる。1年後、ストルニはコロンダに赴き、当地で地元の小学校教師になるための勉強を始める。この頃、地元の雑誌『Mundo Rosarino』や『Monos y Monadas』、さらに『Mundo Argentino』でも働きだした。
ストルニは1916年にエミン・アルスランが発行している文学雑誌『La Nota』に初めて複数の作品を発表した。彼女は1919年3月28日から11月21日まで常連ともいえる寄稿者であった[7][4][8]。彼女の詩『Convalecer』や『Golondrinas』は雑誌に掲載された。貧困生活にもかかわらず、彼女は1916年に詩集『La inquietud del rosal』を刊行し、そのかたわら商店のレジ係として働きながら雑誌『Caras y Caretas』で執筆を始めた。今日でもストルニの初期の詩作品は最もよく知られ、高く評価されているが、ホルヘ・ルイス・ボルヘスやエドゥアルド・ゴンザレス・ラヌザといった著名人など同時代の男性から厳しい批判を受ける[9]。著作はエロティシズムやフェミニストをテーマとしており、詩の主題はこの時代において物議を醸すが、このような直接的方法で女性について書くことは詩人として彼女の最も重要な革新のひとつであった[10]。
広がる評価
急速に発展するブエノスアイレスの文学界においてストルニはほどなくホセ・エンリケ・ロドやアマド・ネルヴォなどといった他の作家と親交を結ぶ。彼女の経済状態は向上して、ウルグアイのモンテビデオに旅行する余裕もできた。当地にて彼女は詩人ファナ・デ・イバルボロウやオラシオ・キロガと出会い、二人と大親友になる。キロガはアナコンダグループを率いており、ストルニはエミーラ・ベルトレー、アナ・ワイス・デ・ロッシ、アムパロ・デ・ヒエケン、リカルド・ヒッケン、ベルタ・シンゲルマンとともにメンバーになった[11][12]。最も多作な時期の一時期である1918年から1920年までストルニは『El dulce dano』(甘い痛み、1918年)、『Irremediablemente』(絶望、1919年)、『Languidez』(倦怠、1920年)といった3冊の詩集を発表する。後者は第一市詩賞や第二国民文学賞を授与され、才能ある作家として名声と評判を高めた。また彼女はこの頃の著名な新聞や雑誌にて数多くの論説を発表した[13]。その後、彼女の作品で最も伝統的詩形の構造を用いたうちの一作であり、ほぼ全体がソネットで構成されている1925年の詩集『Ocre』で詩形の実験を続ける。1926年の詩集『Poemas de Amor』は彼女の作品の中ではあまり知られていないが大ざっぱな散文詩で構成されており、前作とほぼ同時期に書かれた[14]。
演劇
詩集『Ocre』が成功のうちに終わったあと、ストルニは戯曲の執筆に没頭することになる。初めての自伝的戯曲作『El amo del mundo』は、1927年3月10日にセルバンテス劇場で上演されたが、観衆に好評ではなかった[15]。とはいえ多くの批評家たちは、この頃のアルゼンチンは劇場全体が衰退状態にあったため、こういう時代的雰囲気の中において数多くの質の高い戯曲作が成功を果たせずに失敗したことを見ており、作品そのものが低品質であることを決定付けるものでは無い。劇の短期上演後、ストルニは本作をバンバリナスで刊行、同出版社での原題は『Dos mujeres』である[16]。戯曲『Dos farsas pirotecnicas』を1931年に発表、それから彼女は何十年もの間もずっと人気を保ち続けることになったであろう数多くの子供向けの戯曲を書き上げた。
後期作
詩集の発表からほぼ8年もの休筆の後、ストルニは1934年に詩集『El mundo de siete pozos』(七つの井戸の世界)を刊行した。彼女が生前に刊行した最終巻である1938年の詩集『Mascarilla y trebol』(マスクとクローバー)は卓越した韻文実験が注目される。最終巻には彼女が「アンチソネット」と呼んだもの、または伝統的ソネットの多くの詩形構造を用いているが、伝統的押韻構成に則らない韻文が収録されている[17]。
病、そして最期
1935年、ストルニは左胸にしこりを発見して手術を受ける[2]。さらに1935年5月20日に根治的乳房切除術を受けた。彼女は1938年に乳がんが再発したことを知った。1938年10月25日火曜日の午前1時頃、ストルニは部屋を出たあと、アルゼンチンのマルデルプラタにあるラペルラビーチの海に向かい、入水自殺した。その朝遅くに2人の労働者が遺体が浜辺に打ち上げられているのを発見した。伝記作家は彼女が防波堤から海の中に飛び込んだと考えているが、一般に広まっている伝説によれば、彼女は水死するまでゆっくりと海の中へと向かって歩いていったという。のちにラ・チャカリータ墓地に埋葬される[18]。 彼女の入水自殺はアリエル・ラミレスやフェリックス・ルナにインスピレーションを与え、楽曲『"Alfonsina y el Mar"』(アルフォンシーナと海)を作曲させた[19]。
著作
1916 La inquietud del rosal ("The Restlessness of the Rosebush")[20]
1916 Por los niños que han muerto("For the kids that have died")[21]
1916 Canto a los niños("Sing to the Children")[21]
^Pascucci, Michele M. (2016). “Mensajeros de un tiempo nuevo: Modernidad y nihilismo en la literatura de vanguardia (1918–1936) by Juan Herrero Senés”. Hispania99 (3): 495–496. doi:10.1353/hpn.2016.0077. ISSN2153-6414.