アンソン・バーリンゲーム (Anson Burlingame , 1820年 11月14日 - 1870年 2月23日 )はアメリカ合衆国 の政治家・外交官。駐清公使を務め、後に清朝 の使節団の代表となった。中国名は蒲安臣 。
生涯
共和党の政治家として
ニューヨーク州 ニューベルリン で生まれる。1823年 に一家はオハイオ州 に移り、10年後にミシガン州 に移住した。1838年 から1841年 までミシガン大学 で学ぶ。1846年 にハーバード大学 のロースクールを卒業し、ボストン で弁護士を開業した。
1848年 より自由土地党 (United States Free Soil Party、1848年—1852年)に参加し、講演活動で名声を得た。1853年 、マサチューセッツ州 の州議会議員となった。当時、アメリカ全土で奴隷制の是非に対する論議が巻き起こっていたが、バーリンゲームは奴隷廃止論者であった。1854年 、奴隷制に反対する政治家たちが共和党 を結成すると、バーリンゲームも参加し、マサチューセッツでの組織化に尽力した。1855年 より国政に進出し、1861年 まで下院議員を務めた。
駐清公使
清への赴任途上、日本でバーリンゲームに贈られたと伝わる盆栽
1861年にエイブラハム・リンカーン が大統領に就任すると、バーリンゲームは駐清公使に任命された。バーリンゲームは国務長官ウィリアム・スワード に対清「協力政策」を提出し、1862年 7月20日 に北京 に到着して以降、「武力外交」に代わって「公正な」外交を展開した。このバーリンゲームの態度は、清朝のアメリカに対する好感を引き出し、さらに清朝から個人的な信任を得た。
バーリンゲーム使節団
1867年 11月27日 、バーリンゲームの駐清公使の任期が満了となり、帰国することになった。バーリンゲームは総理各国事務衙門 主催の離任の宴席で「もし各国と問題が発生した時は、尽力しよう」と述べた。当時、清朝は外国使節団の派遣を検討していたが、外交に明るい人物が見当たらず苦慮していた。そこで恭親王奕訢 はバーリンゲームを使節団の全権代表(弁理中外交渉事務大臣)とするように上奏した。こうしてバーリンゲームは清朝の代表として、アメリカ・イギリス ・フランス ・プロイセン ・ロシア などを訪問することとなった。
1868年 2月25日 、使節団30名は上海 から「コスタリカ号」に乗船し、アメリカに向かった。使節団には海関道志剛 ・礼部郎中孫家谷 の両名の官僚も含まれていた。
アメリカ合衆国
1868年4月に一行はサンフランシスコ に到着した。6月2日 にワシントン に到着し、翌日に国務長官スワードと会見し、6月6日 には大統領アンドリュー・ジョンソン に国書を手渡した。7月28日、バーリンゲームとスワードとの間で近代中国史上最初の対等な条約である『中米追加条約』(俗に『バーリンゲーム条約』といわれる)を調印した。条約は清を対等な国家として認め、清の領土の割譲に反対することを規定していた。さらに「清とアメリカは、両国民の往来・留学・貿易・居住に関して、これを妨げず、相互の利益を図る」と規定した。アメリカは清の内政に不干渉を表明するとともに、大陸横断鉄道の建設のための中国人労働者を得ることができた。
イギリス
9月19日 、使節団はイギリスのロンドン に到着し、10月20日 にウィンザー宮殿でヴィクトリア女王 に謁見した。このとき、イギリスではウィリアム・グラッドストン 内閣が成立し、クラレンドン伯爵が外務大臣に就任した。12月26日 にクラレンドンはバーリンゲームらと会見し、28日に照会を発表した。イギリス政府は清朝と「和をもってことをなす」としながらも、条約の履行を強く迫った。1869年 1月1日 、バーリンゲームは照会に同意した。
フランス
1869年1月2日 、一行はパリ に到着し、1月21日 に皇帝ナポレオン3世 に謁見した。しかしフランスの強硬な態度のために交渉は遅々として進まず、使節団は半年間滞在したが、結局アメリカやイギリスでのような成果を上げることができず、失意のうちにフランスを後にした。
プロイセン
1869年9月21日 にスウェーデン を訪れ、10月7日 にストックホルム を離れた。10月31日 にデンマーク を離れ、11月18日 にオランダ を出発した。1870年 1月にベルリン を訪問し、交渉の結果、オットー・フォン・ビスマルク 首相はイギリスと同様の清に有利な声明を発表した。
ロシア
1870年2月1日 、使節団はロシアに入り、2月16日 にサンクトペテルブルク で皇帝アレクサンドル2世 に謁見した。皇帝との会談では清とロシアとの国境紛争の回避など実務的な内容が話し合われた。その翌日、バーリンゲームは肺炎で倒れ、病状は日々悪化していった。
死去
1870年2月23日、バーリンゲームは肺炎の悪化のためサンクトペテルブルクで死去した。50歳。清朝は駐清公使時の「協力政策」と、使節団全権代表として主権と領土を保持した功績により、一品官銜と銀1万両を授けた。
現在、カリフォルニア州 とカンザス州 にバーリンゲームの名を冠した都市がある。
関連項目
参考文献
阪本英樹『月を曳く船方―清末中国人の米欧回覧』成文堂、2002