Share to: share facebook share twitter share wa share telegram print page

 

アンダルシーア社会党

アンダルシア州の旗アンダルシーア州の政党
アンダルシーア社会党

Partido Socialista de Andalucía(PSA)
報道官 ペドロ・パチェーコ(2008年まで)
創立 2001年 注1
解散 2011年 注2
青年部 Juventudes Andaluzas Nacionalistas(JAN)
政治的思想 アンダルシーア・ナショナリズム

注1アンダルシーア主義党から分離して創設。
注2アンダルシーア主義党に再合流。

アンダルシーア社会党Partido Socialista de Andalucía、略称PSA)はかつて存在したアンダルシーア・ナショナリズムスペイン語版を掲げたスペイン政党。2001年にアンダルシーア主義党(PA)スペイン語版から分離して創設、当時ヘレス・デ・ラ・フロンテーラの首長であったペドロ・パチェーコに率いられた。2011年、数年来共闘関係を維持してきたPAに再合流することを決した。

創設後最初の選挙であった2003年の自治体選挙において、およそ59,000票を獲得、アンダルシーア州全体で55議席を獲得した。2004年3月14日に行われた自治州選挙では42,000超の票を獲得したものの、第6党で、議席獲得には至らなかった。2004年の欧州議会選挙では選挙連合諸民族のヨーロッパスペイン語版に参加、1議席を得た。この選挙連合にはカタルーニャ共和主義左翼(ERC)アラゴン主義連合(CHA)バスク連帯(EA)アストゥリアス連帯(AA)などのナショナリスト政党とともに参加した。

2007年の自治体選挙では、およそ50,000票を獲得、議席数を60以上に増やした。

2007年11月末、PSAとPAは再び協力関係を構築することを決め、両党は翌年3月9日に予定されていた総選挙自治州選挙に臨むため、その他の弱小勢力とともにアンダルシーア主義同盟を結成した。選挙連合は自治州選挙、総選挙ともに1議席も獲得できず、PAは5議席を失う結果となった。

2008年11月にチクラーナ・デ・ラ・フロンテーラで開催された第3回PSA党大会で、当時書記長の職にあったペドロ・パチェーコは辞意を表明した。同大会においてアマリア・ベナベンテ、ホセ・ペレス、フアン・ロマン、ホセ・アントーニオ・ピノらによる集団指導体制が発足、ホセ・アントーニオ・ピノが代表職に就いた[1]

2009年の欧州議会選挙では、単独で臨んだものの、アンダルシーア・ナショナリスト・ブロック(BNA)アンダルシーア集中などの政党の支援を受けた[2]。結果は2004年を上回る9,649票をアンダルシーア州で獲得(自治州内の0.37%、カディス県での成績は他よりもよく0.85%の票を獲得した)、スペイン全体では13,933票超を獲得した[3]。しかし、欧州議会において議席を得るには至らなかった。

2011年5月1日、臨時党大会においてPSAは再びアンダルシーア主義党に合流することを決した[4]。この合併の後かつてのPA-PSAの分離劇の推進者であったペドロ・パチェーコはヘレス・デ・ラ・フロンテーラの自治体選挙と2012年の自治州選挙に臨むため党を離脱、自身の党アンダルシーア・プラットフォーム=市民フォーラムを立ち上げた。

関連項目

脚注

Prefix: a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9

Portal di Ensiklopedia Dunia

Kembali kehalaman sebelumnya