ミド(アラビア語: ميدو, ラテン文字表記: Mido)ことアハマド・ホサーム・フセイン・アブドゥルハミード(アラビア語: أحمد حسام حسين عبد الحميد, ラテン文字表記: Ahmed Hossam Hussein Abdelhamīd, 1983年2月23日 - )は、エジプト・カイロ出身の元同国代表サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはFW(センターフォワード)。
クラブ歴
アヤックス
2001-02シーズンよりアヤックス・アムステルダムへ加入する。初年度にリーグ戦12ゴールを記録し、クラブのエールディヴィジ制覇に貢献。2002年にはアフリカ年間最優秀若手選手に選出された。翌シーズンは序列を下げ、後半戦はセルタ・デ・ビーゴへ期限付き移籍。8試合出場4得点を記録する。セルタは完全移籍での獲得を希望したが、移籍金がネックとなり実現しなかった。
マルセイユ
2003年7月11日、移籍金600万ユーロでリーグ・アンのオリンピック・マルセイユへ移籍[1]。同じく新加入のディディエ・ドログバと共にアラン・ペラン監督の下で前線を形成する。2004年4月14日のUEFAカップ準々決勝・インテルナツィオナーレ・ミラノとの第2戦、ドログバを累積警告で欠く中でこの試合唯一となる得点を挙げ、クラブの準決勝進出に貢献した[2]。
イングランド時代
2004年8月31日、セリエA・ASローマへ移籍[3]。しかし出場機会は限られ、2005年1月26日にマルティン・ヨル率いるトッテナム・ホットスパーFCへ1年半の期限付き移籍となる[4]。2月5日のポーツマスFC戦でスタメンに起用されプレミアリーグでデビューすると、2ゴールを奪い3-1での勝利に貢献[5]。11月20日のウェストハム・ユナイテッドFC戦では相手サポーターから人種差別的なチャントを受け、ハマーズのアラン・パーデュー監督から謝罪された[6]。2005-06シーズンで27試合出場11得点を記録。シーズン終了に伴いローマに戻るが[7]、ルチアーノ・スパレッティ監督の構想には入らず2006年8月26日にスパーズへ完全移籍する[8]。
2007年8月16日、移籍金600万ポンド(約13.5億円)の4年契約でイングランドのミドルズブラFCへ移籍した[9]。2008年11月29日のニューカッスル・ユナイテッドFC戦では、サポーターから再び人種差別的な扱いを受ける[10]。2009年1月23日には、エミール・ヘスキーの移籍でFWの層が薄くなっていたウィガン・アスレティックFCへシーズン終了までのローン移籍となり、代表でもコンビを組んでいるアムル・ザキとともにプレーした[11]。
クラブは2008-09シーズンにリーグ19位となりチャンピオンシップへ降格。2009年夏にクラブはリロイ・リタを獲得しガレス・サウスゲート監督から放出を示唆される[12]。同年8月4日に母国のアル・ザマレクへローンで復帰したが[13]、2010年2月1日からシーズン終了までウェストハム・ユナイテッドFCへ期限付き移籍しイングランドに復帰した[14]。
2010年9月1日にマルコ・パンテリッチの後釜として古巣アヤックスへシーズンローンで復帰[15]。マルティン・ヨルと再会しジョーカー的な役割として起用されたが、フランク・デ・ブール監督に代わってからは構想外となり、2011年1月21日、再びザマレクへ3年半の契約で完全移籍。かつてエジプト代表で険悪な関係となったハッサン・シェハータ(英語版)監督をクラブが招聘するため、2012年5月6日にザマレクを去る[16]。翌月21日にチャンピオンシップのバーンズリーFCへ完全移籍し、通算5度目となるイングランド復帰となった[17]。
2013年6月11日、自身のTwitterで現役引退を発表した[18]。
代表歴
マハムード・エル=ゴハリ監督によりエジプト代表に初招集されると、2001年1月6日の国際親善試合・UAE戦で代表史上最年少となる17歳でデビュー[19]。スタメンに名を連ねると50分に同点弾を挙げ、2-1での勝利に貢献した。
母国開催となったアフリカネイションズカップ2006では、1月20日に行われたリビアとの大会開幕戦で先制点を挙げ3-0の勝利に貢献した[20]。
指導歴
2014年1月20日、キャリアをスタートしたアル・ザマレクの監督に就任[21]。エジプト・プレミアリーグ史上最年少の指揮官となった[22]。クラブを同年のエジプト・カップ制覇へ導き、同大会最年少記録となった。しかしリーグ戦では3位に留まり、7月30日に解任された[23]。
2016年1月4日から再びザマレクを指揮したが、翌月10日に解任となる[24]。
2016年11月7日、ワディ・デグラSCの指揮官に招聘されることが発表された[25]。
2018年12月にサウジ・プロフェッショナルリーグのアル・ワフダ・メッカの監督に就任するが、翌年3月19日にTwitterでの発言が原因で解任された[26]。
2019年6月9日よりミスル・レル・マカーサSCの指揮を執るが[27]、翌年1月22日に成績不振によりその職を解かれた[28]。
人物
問題児として有名で数々の破天荒な言動が目立つ。
- アヤックス在籍時はレギュラーとして活躍していたものの、ロナルド・クーマン監督と起用法を巡り対立し、シーズン中にエジプトに帰国する事態もあった。また、同僚であったズラタン・イブラヒモヴィッチとロッカールームで口論となった末にハサミを投げつけた[29]。
- 2006年に地元開催されたアフリカネイションズカップ2006では、準決勝のセネガル戦での途中交代に怒りを露わにし、衆人環視の中でハッサン・シェハータ(英語版)監督と小突き合いをし、半年間の出場停止処分を受けていた(後にミドが謝罪したため撤回)。
- ミドルズブラ在籍時の2009年7月20日、プレシーズンのトレーニングに参加せず、給与の支払いを差し止められたことがある。
2002年に同郷のYosra Waelと結婚している[30]。
現役引退後は体重が増加し一時150kgに達したが、医師の忠告を受け2018年に37kgの減量に成功した[31]。
個人成績
代表
[32][33]
エジプト代表 | 国際Aマッチ |
年 | 出場 | 得点 |
2001 |
14 |
7
|
2002 |
8 |
3
|
2003 |
8 |
6
|
2004 |
4 |
0
|
2005 |
5 |
3
|
2006 |
6 |
1
|
2007 |
2 |
0
|
2008 |
2 |
0
|
2009 |
2 |
0
|
合計 |
51 |
20
|
監督成績
- 2020年1月21日現在[34]
クラブ
|
就任
|
退任
|
記録
|
試合 |
勝 |
分 |
負 |
勝率 %
|
ザマレク
|
2014年1月21日
|
2014年7月29日
|
7001310000000000000♠31
|
7001160000000000000♠16
|
7000800000000000000♠8
|
7000700000000000000♠7
|
07001516100000000000♠51.61
|
イスマイリー[35]
|
2015年7月15日
|
2015年12月20日
|
7000900000000000000♠9
|
7000500000000000000♠5
|
7000100000000000000♠1
|
7000300000000000000♠3
|
07001555600000000000♠55.56
|
ザマレク
|
2016年1月4日
|
2016年2月9日
|
7000700000000000000♠7
|
7000400000000000000♠4
|
7000100000000000000♠1
|
7000200000000000000♠2
|
07001571400000000000♠57.14
|
ワディ・デグラ
|
2016年11月8日
|
2017年12月3日
|
7001420000000000000♠42
|
7001100000000000000♠10
|
7001140000000000000♠14
|
7001180000000000000♠18
|
07001238100000000000♠23.81
|
アル・ワフダ
|
2018年12月17日
|
2019年3月19日
|
7001130000000000000♠13
|
7000600000000000000♠6
|
7000300000000000000♠3
|
7000400000000000000♠4
|
07001461500000000000♠46.15
|
エル・マカーサ
|
2019年6月9日
|
2020年1月21日
|
7001170000000000000♠17
|
7000300000000000000♠3
|
7000500000000000000♠5
|
7000900000000000000♠9
|
07001176509999900000♠17.65
|
合計
|
7002119000000000000♠119
|
7001440000000000000♠44
|
7001320000000000000♠32
|
7001430000000000000♠43
|
07001369700000000000♠36.97
|
タイトル
- 現役時代
- クラブ
- ザマレク
- アヤックス
- 代表
- エジプト
- 個人
- 指導者時代
- ザマレク
脚注
外部リンク