ウェブスター郡 (ミシシッピ州)
ウェブスター郡(英: Webster County)は、アメリカ合衆国ミシシッピ州の中央部に位置する郡である。2010年国勢調査での人口は10,253人であり、2000年の10,294人から0.4%減少した[1]。郡庁所在地はワルトホール村(人口144人[2])であり、同郡で人口最大の都市はユーポラ市(人口2,197人[3])である。郡名は政治家のダニエル・ウェブスターに因んで名付けられた。 歴史オールドグリーンズボロがウェブスター郡の郡庁所在地として知られており、現在もオールドグリーンズボロ墓地があることで知られている。1872年、郡庁がグリーンズボロからラグランジに移された。1874年にサムナー郡が設立され、グリーンズボロが再度郡庁所在地になったが、1876年までのことであり、この時はワルトホールに移された。既に衰退を始めていたグリーンズボロの町が急速に荒廃した。現在ではオールドグリーンズボロ墓地にその痕跡を留めるだけである。グリーンズボロは当初チョクトー郡の郡庁所在地だった。チョクトー郡は1833年のダンシングラビット・クリーク条約で獲得した領土から形成されていた。当時は現在のウェブスター郡全部、モンゴメリー郡東部、グレナダ郡の小部分を含む大きな郡だった。 グリーンズボロの町はチョクトー郡の中央に位置しており、主にアラバマ州、ジョージア州、サウスカロライナ州から入ってきた開拓者が住んでいた。暫定的な郡庁舎と丸太造りの監獄は、1839年に煉瓦造りの郡庁舎と監獄に置き換えられた。この郡庁舎は1865年の火事で焼失した。放火によるものと考えられている。この火事で初期の記録のほとんど全てが焼失した。 一時期のグリーンズボロには幾種類からの店舗、酒場、馬の世話を請け負う厩舎、煉瓦工場、新聞社があった。1839年にはメソジスト教会があり、1846年にはバプテスト教会もできた。フリーメイソンのグリーンズボロ支部第49号は1842年に認可された。 グリーンズボロは荒々しく無法の町という評判があり、多くの悪名高い犯罪や殺人事件がここで起きた。ナチェズ・トレイスの有名な無法者ジョン・A・ミュレルが、馬泥棒で裁判に掛けられ有罪となったが、投獄のためにコロンバスに送られる途中で護衛を殺し、逃亡した。 エドワード・デウィット・エドワーズ・ジュニアの資産がある開拓地から起きたエドワーズ・グレイ抗争は1861年に暴発した。未亡人のメアリー・"モリー"・グレイ・エドワーズの3人の兄弟(ウィリアム、ジェイムズ、ロバート)が、エドワード・D・エドワーズ・シニア判事とその息子のルーサー・エドワーズを銃で撃って殺した。グレイ兄弟は投獄されたが暴徒が監獄に押しかけ、2人を射殺し、残る1人を絞首刑にした。 W・F・ブラントリーとアーノルド・ブラントリーの兄弟もこの近くで殺された。アーノルドは1880年にウィノナで殺され、殺人者は逃亡した。W・F・ブラントリーはウィノナからグリーンズボロまで馬で移動中に待ち伏せされており、テキサス州にいるブラントリーの兄が雇った殺し屋集団によるものと考えられている。 政治家は度々グリーンズボロで選挙運動を行っており、例えば1851年のジェファーソン・デイヴィスは知事選挙に出馬していた。 南北戦争が勃発するとグリーンズボロとチョクトー郡の若者7人が競って南軍に入隊した。最初に立ち上げられた中隊は第15ミシシッピ歩兵連隊ウィッグフォール・ライフル銃D中隊だった。この部隊は1861年4月にグリーンズボロで結成され、隊長はグリーンズボロのウィリアム・F・ブラントリーであり、後に南軍で最年少の将軍になった。1864年12月、北軍がこの町を襲撃し、その大半を焼いた[4]。 地理アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、郡域全面積は423.34平方マイル (1,096.4 km2)であり、このうち陸地422.49平方マイル (1,094.2 km2)、水域は0.85平方マイル (2.2 km2)で水域率は0.20%である[5]。 主要高規格道路
隣接する郡
国立保護地域
人口動態
都市と町都市町
村未編入の町
脚注
外部リンク |