ウルグダイ
ウルグダイ (またはウルフダ) はハダナラ氏女真族、ハダ末代国主。先代国主のメンゲブルの長子、ヌルハチの婿。 ヌルハチに居城を攻略されたが、明朝の介入で一旦は国王に復帰した。しかしイェヘの襲撃に晒されながら勢力的に孤立していたことからマンジュ (建州部)、後のアイシン (後金) に投じ、以後ヌルハチ勢力下で兵士として各地を転戦した。 略歴国敗父亡万暦27 (1599) 年旧暦5月、イェヘ東城主・ナリムブルがハダの貢市を狙って侵攻し、貢勅[4]60道を横奪した。一方、ハダ国主・メンゲブル (ウルグダイの父) は自らの子女を人質に送って、ヌルハチのマンジュ・グルン (建州部) から援軍を引き出し、対抗を図った。ナリムブルは二者の連携を阻止しようと、娘との婚姻を条件にマンジュ兵を殺して将軍を捕らえるようメンゲブルを唆す一方で、マンジュ側にはメンゲブル叛乱の噂を流し、ヌルハチを激怒させて不信感を煽った。同年旧暦9月、メンゲブルはヌルハチにより居城を攻略され、子・ウルグダイともどもヌルハチ居城へ連行された。 万暦28 (1600) 年旧暦4月、ヌルハチの妾と姦通しヌルハチ殺害を企てたとして、メンゲブルが処刑された。メンゲブル死亡を知った明朝の万暦帝は使者に勅旨を持たせて建州部 (マンジュ) へ派遣し、ハダの国を奪取したこと、及び許可なくメンゲブルを殺害したことでヌルハチを譴責し、[5]市賞の権利を剥奪すると脅して、メンゲブルの次子・革把庫[6][7]と部民120戸を返還することを求めた。[8] 復興再亡万暦29 (1601) 年旧暦1月、ヌルハチは明朝の譴責を受けて、元々メンゲブルに婚約させていた娘・マングジ[9]をウルグダイの妻として嫁がせた。[5]同年旧暦7月、撫順関外で白馬を屠り盟約を誓ったヌルハチは、ウルグダイを婿として扶養し、ハダの領民を元の部落へ返還した。イェヘ国主・ナリムブルは明朝の介入を受け、ハダから横奪した勅書60道を返還したが、ヌルハチが依然としてイェヘからの保護を名目にウルグダイを解放しないことを批判し、明朝にウルグダイのハダ帰還を要求した (当時のヌルハチは海西女直のほかに李氏朝鮮領にまで食指を伸ばしていた[10])。[11]しかしヌルハチがついにウルグダイを解放し、妻・マングジ[9]と部民を連れてハダへ帰還させると、ナリムブルはまたも蒙古兵を率いて度々ハダを襲撃するようになった。ヌルハチは明朝に介入を求めたが、明朝は聴く耳をもたなかった。その後、ハダは大饑饉に見舞われ、ウルグダイは開原城 (現遼寧省鉄嶺市開原市) に食糧援助の要請を出すも聞き容れられず、ハダ国内は妻子や家内奴隷、牛馬を鬻(ひさ)いで食い繋ぐありさまであった。そして、明朝に見放され、イェヘの軍事的脅威が止まない中、ウルグダイはヌルハチのマンジュ (建州部) に投じた。ここにハダ・グルンは完全消滅し、ウルグダイは一兵士としてヌルハチ勢力下に吸収された。 帰属併呑亡命騒動天命5 (1620) 年旧暦9月、モロホン夫婦、ジャイサング、ショトが明朝への亡命を共謀した。ウルグダイの弟・モロホンは充分な生活的援助を与えられず衣食に不自由をしていたことから、ウルグダイに恨みを抱いていた。モロホンはヌルハチの弟・シュルハチの娘を妻として与えられていたが、妻の兄弟・ジャイサング (シュルハチの子) も、兄・アミン (シュルハチの長子) からやはり充分な生活援助を得られていなかった。ショトは父・ダイシャンから虐待を受けていた。それぞれに苦悩をかかえていた三者は互いに交流をもち、亡命を計画するに至った。同月13日、ヌルハチは真相を確かめるべくウルグダイを召して質したところ、モロホン夫婦は生活を無視してひたすら道楽を尽くし、昼夜を問わず宴を催しては酒を喰らっていたことが判明した。三者を問い詰めたところ、亡命計画を事実として認めたのはモロホン夫婦だけで、ショトとジャイサングは否認した。ヌルハチはモロホン夫婦含む数人を処刑し、ジャイサングとショトは放免された。[12] 剃髪強要天命6 (1621) 年旧暦3月、後金は遼陽、鞍山、海州など70余りの城を陥落させ、帰順の証として官民ともに剃髪を強要した。[13]同年旧暦5月初5日、遼東地方では既に全人口が剃髪し帰順したが、鎮江地方だけは剃髪を拒んだ上に使者を殺害したと聞いたヌルハチは、副将・ウルグダイと撫順副将・李永芳に兵1,000を与え視察に向わせた。[14]現地に到着したウルグダイらは剃髪を拒むものを戮し、妻子1,000人を捕虜として連行して同月25日に帰還した。ヌルハチはこれを聞き、漢民族300人に督堂および総兵官以下、遊撃以上の官職を与え、同行した兵士に捕虜600人を与えた。[15] 其他事績天命6 (1621) 年旧暦9月初6日、湯站 (現遼寧省丹東市振安区湯山城鎮?) の守堡が「駐箚守備兵が既に投降している後金国人を襲撃して10,000人を捕虜にし、草地が血で染まった」と報告した。ヌルハチは都堂・アドゥンと副将・ウルグダイに命じ、50人を率いて現地調査に向わせた (結果不明)。[16]同月24日、李朝15代国王・光海君 (暴君として有名) の使者として鄭判事[17]がアイシン・グルン (マンジュ・グルンを基礎にヌルハチが樹立した国家、後金のこと) に到着し、ウルグダイらの三人のエフ、バドゥリ総兵官[18]、エルデニ・バクシ[19]、ならびに五大臣[20]が城外にこれを迎えた。鄭判事は貢物を多く携えて来たが、ヌルハチは受け取りを拒否して悉く突き返した。[21] 天命7 (1622) 年旧暦1月13日、ウルグダイはヌルハチから小旗六組、傘 (儀仗に用いる柄のついた円状の装飾具)、喇叭、哨呐 (スルナイ)、洞簫、鼓を、28日には駱駝一頭、蟒緞 (蛇の刺繍が施された礼装に用いられる布地)、絹衣14着、紅氈6片を下賜された。[13] 天命7 (1622) 年旧暦二月初三日、ウルグダイは妻・マングジとの子・エセンデリを連れて広寧 (現遼寧省錦州市北鎮市) に出征したが、杏山から出発し15里のところで、エセンデリが落馬し死亡した。ヌルハチは孫の訃報を聞き、各ニルから一人ずつ派遣させて、フィヤング・ベイレとヨト・ベイレに引率させ、孫の亡骸を遼東に運ばせた。孫と対面したヌルハチは泣きながら見送った。[13] 子孫*本項目は基本的に『八旗滿洲氏族通譜』巻23に拠った。 系図
事績・栄典ケシネ[23]は属部で編成したニルを統括し、三等男爵を授与されたが、後に罪に問われて爵位を剥奪され、承継はされなかった。 参照先・脚註
参照文献・資料
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