ウルズラ・フォン・デア・ライエン
ウルズラ・ゲルトルート・フォン・デア・ライエン(独: Ursula Gertrud von der Leyen、1958年10月8日 - )は、ドイツの医師、政治家。ドイツキリスト教民主同盟(CDU)所属。欧州委員会委員長(第13代、第14代)。 ニーダーザクセン州社会・婦人・家族・保健大臣、ドイツ連邦共和国家族・高齢者・婦人・青少年大臣(第1次メルケル内閣)、CDU副党首、ドイツ連邦共和国労働・社会大臣(第2次メルケル内閣)、ドイツ連邦共和国国防大臣(第3次メルケル内閣、第4次メルケル内閣)を歴任した。 来歴生い立ちベルギーブリュッセル首都圏地域のイクセルで生まれる。父エルンスト・アルブレヒトは、彼女が生まれたころに欧州石炭鉄鋼共同体で働いており、のちにニーダーザクセン州首相(CDU所属)を務めた[1]。叔父ゲオルゲ・アレクサンダー・アルブレヒトと従兄弟のマルク・アルブレヒトは音楽指揮者。ウルズラは6人姉弟で、弟のハンス・ホルガー・アルブレヒトはDeezer社CEO等を務めた実業家である。 1977年、アビトゥーアに合格し、ゲッティンゲン大学とミュンスター大学で経済学を学ぶが、1980年に中断した。1978年にはロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学している[2]。 医師1980年、ハノーファー医科大学に転じて医学を学び始め、1987年に医師国家試験に合格し、医師としてのインターンを終えた。その後母校で婦人科の助手を務める。1991年に医学博士号を取得[3]。 1986年に医学教授で経営者でもあるハイコ・フォン・デア・ライエンと結婚した[4][注釈 1]。1992年に第3子を出産したのち、一家はアメリカ合衆国に移った。1999年に生まれた末子を合わせて7子がある。1996年にドイツに帰国し、同年より2002年まで母校ハノーファー医科大学の疫学・社会医学・保健システム研究部で助手を務めた。2001年には公衆衛生学修士号を取得している。2024年11月20日には、第19回20か国・地域首脳会合(G20サミット)からの帰路の航空機内で、体調を崩した乗客の応急処置を行ったことが評価された[5]。 フォン・デア・ライエンは現在、ニーダーザクセン州ハノーファー広域連合に含まれるバインホルンに居住している。フォン・デア・ライエンと家族はハノーファー福音ルター派州教会に属している。 地方の政界入り1990年、キリスト教民主同盟(CDU)に入党。1996年から1997年まで、CDUニーダーザクセン支部の社会政策委員会委員を務める。続いて、CDUニーダーザクセン支部医師会に属した。2001年から2004年までゼーンデ市議会議員に選出され、CDU 議員団長を務める。同時期、ハノーファー郡議会議員を務め、議会の保健・病院委員会会長を務めた[2]。 2003年3月、ニーダーザクセン州首相クリスティアン・ヴルフ内閣に社会・婦人・家族・健康相として入閣した。在任中、強い抗議にもかかわらず失明者に対する補助金を廃止して批判を浴びた。2003年より2005年までニーダーザクセン州議会議員を務める。2004年12月のCDU党大会では、予想に反してCDU執行部員に選出された。2005年2月よりCDUの「両親・子供・仕事」委員会の委員長を務める。 家族・高齢者・女性・青少年大臣2005年8月、CDU党首アンゲラ・メルケルの2005年ドイツ連邦議会選挙の選挙対策チームに家族・保健政策担当として招聘された。選挙後の2005年11月、第1次メルケル内閣に家族・高齢者・女性・青少年相として入閣する。 子供手当制度導入2007年1月、従来の養育補助金制度を廃止して子供手当制度を導入した。 保育所増設をめぐる論争同年、保育所の大増設を提案したため、あるべき家族の姿をめぐって論争を巻き起こすことになった。保育所増設の主張に対して、キリスト教社会同盟(CSU)を中心とする与党から「伝統的家族観を捨て去ったもので、従来の支持層が離反する」と批判が巻き起こったのに対し、首相メルケルをはじめとする党執行部や連立相手のドイツ社会民主党(SPD)[6]、野党同盟90/緑の党、左翼党[7]からは支持の声が出るなど、議論は錯綜した。カトリック教会のヴァルター・ミクサ・アウクスブルク司教は猛反対したのに対し、ベルリン枢機卿ゲオルク・シュテルツィンスキーやドイツ福音主義教会(プロテスタント)の常議員会議長マルゴート・ケースマンは賛意を示した。しかし、フォン・デア・ライエンの提案は連立内の委員会で審議停止とされた[8]。 雑誌デア・シュピーゲルでのクリスタ・ミュラー(元財務相オスカー・ラフォンテーヌの当時の妻で、左翼党ザールラント州家族政策広報官)との論争で、ミュラーは「保育所は子供の情操上好ましくない」とフォン・デア・ライエンの政策を批判し、ミクサ司教による批判に同調した。このため左翼党内でもミュラーを批判する声が上がった。 インターネット規制2009年には児童ポルノ規制のためインターネット規制を強化することを提案して大きな議論を巻き起こした。インターネットサービスプロバイダーに対して児童ポルノ提供サイトの基本的な秘密情報を連邦刑事局に提供することを義務づけるもので、法学者やIT専門家、人権活動家、被害者、被害者保護団体による議論を巻き起こした。この法律案は大統領ホルスト・ケーラーが署名を拒否したこともあり、2010年2月に取り下げられた[9]。 労働・社会大臣2009年ドイツ連邦議会選挙ではニーダーザクセン州の比例代表リストから当選してドイツ連邦議会議員に初当選した。 同年10月に成立した第2次メルケル内閣では、保健分野を外した家族相として留任する。保健相には自由民主党のフィリップ・レスラーが就任した。同年11月、労働・社会相フランツ・ヨーゼフ・ユングが国防相当時の不祥事の責任を取って辞任したため、その後任に転じた[10]。 国防大臣と首相候補としての挫折2013年に発足した第3次メルケル内閣では、ドイツ史上初となる女性国防大臣に就任した[11]。2018年に発足した第4次メルケル内閣でも国防大臣に留任。当初はメルケルの後継者とも目されていたが、ドイツ軍の装備と即応体制の杜撰さや国防省での相次ぐスキャンダルで人気は大きく低下していった。SPDのマルティン・シュルツ(元欧州議会議長)からは、「最も弱い閣僚」と酷評された[12]。また、その上昇志向の強さが党内でも忌避され、「ポスト・メルケル」のレースからは完全に脱落していった。結局1980年にCDU内での首相候補争いに敗れた父親エルンスト・アルブレヒトに続き、彼女もドイツの首相になる悲願を断たれた。だがそこでメルケルは、国内では不人気のフォンデアライエンに欧州委員長ポストを与えて長年の功に報いると共に、国防相に新たな後継者候補を据えて政権浮揚を模索するようになる[13]。 欧州委員長第15代欧州委員会委員長の選出は、独仏間や東西間の対立により難航した[12]。紆余曲折の後、ポーランドやハンガリーといった東欧諸国の支持により[14]、2019年7月2日にブリュッセルで開催された欧州連合首脳会議にて、次期欧州委員会委員長に指名された[15]。 7月16日の欧州議会で賛成383票、反対327票の僅差で委員長就任が承認され、初の女性欧州委員長になることが正式に決定した[16]。これにより国防相を辞任し、後任には当時メルケル後継の最有力候補と見做されていたCDU党首のアンネグレート・クランプ=カレンバウアーが就任した[17]。383票は、決定に必要とされる374票を僅か9票上回ったに過ぎなかった[18]。11月28日には欧州議会でフォン・デア・ライエンを委員長とする欧州委員会の新体制が賛成461、反対151、棄権89票で承認され、フォン・デア・ライエン体制が12月1日に発足することが決定した[19]。 2019年末から始まったCOVID-19パンデミックは、翌年3月に欧州でも急拡大した。各国は自国民を守るためシェンゲン協定を一時停止して国境閉鎖を行い[20]、フォン・デア・ライエンはこれを批判したが、逆に非難を受けた[21]。医療や経済を支援する政策を取り決めた[22]。 2021年、法の支配に反する法整備を進めるポーランドに対し、「EUの法秩序の一体性に対する真っ向からの挑戦だ」として資金提供停止を示唆した[23]。2022年より、加盟国による法の支配の原則に対する違反が認められる場合に、当該加盟国へのEU予算執行の一時停止などの措置をとることができる規則が制定された[24]。 米英豪によるAUKUS創設において、フランスがオーストラリアに潜水艦共同開発計画を破棄された際には、「加盟国の一つが許されない扱いを受けている」と批判した[25]。 2022年ロシアのウクライナ侵攻が起きると、フォン・デア・ライエンはウクライナ全面支持を打ち出し、2月27日にはインタビューで「ウクライナはわれわれの一員。加入してほしい」と述べた。これを受け、翌日にウクライナは特別な手続きですぐに加盟できるようEUに要請した。しかしながら、現実的な問題としてコペンハーゲン基準を満たさず、加入候補国にもなれないウクライナが加入するのはEUの秩序を乱す行為であり、EUのミシェル大統領は3月1日、ウクライナの立場に理解を示す一方で、「難しいだろう。各国の意見はさまざまだ」と述べた。また、エリック・マメル欧州委員報道官により、フォン・デア・ライエンの発言は撤回された。[26] 5月4日にはロシア産原油の段階的輸入禁止を提案した[27]。これは多くの加盟国から支持を得たが、ロシア産に大きく依存しているハンガリーからは経済被害が大きすぎると反発を受け、代替案を求められた[28]。 2024年6月27日に開催された欧州連合(EU)首脳会議において、任期満了の2024年12月以降も委員長を続投する方針が承認された[29]。7月18日に欧州議会で賛成401票、反対284票で再任が承認された[30]。 著書
脚注注釈出典
外部リンク
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