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カルタジローネ

カルタジローネ
Caltagirone
カルタジローネの風景
特産の陶器で飾られたサンタ・マリア・デル・モンテの階段
行政
イタリアの旗 イタリア
シチリアの旗 シチリア
県/大都市 カターニア
CAP(郵便番号) 95041 capoluogo, 95040 Granieri e Santo Pietro
市外局番 0933
ISTATコード 087011
識別コード B428
分離集落 #分離集落参照
隣接コムーネ #隣接コムーネ参照
地震分類 zona 2 (sismicità media)
気候分類 zona C, 1398 GG
公式サイト リンク
人口
人口 37,883 [1](2019-01-01)
人口密度 99 人/km2
文化
住民の呼称 calatini (o caltagironesi)
守護聖人 聖ジャコモ (san Giacomo il Maggiore)
祝祭日 7月25日
地理
座標 北緯37度14分 東経14度31分 / 北緯37.233度 東経14.517度 / 37.233; 14.517座標: 北緯37度14分 東経14度31分 / 北緯37.233度 東経14.517度 / 37.233; 14.517
標高 608 (50 - 791) [2] m
面積 382.77 [3] km2
カルタジローネの位置(イタリア内)
カルタジローネ
カルタジローネの位置
カターニア県におけるコムーネの領域
カターニア県におけるコムーネの領域 地図
イタリアの旗 ポータル イタリア
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カルタジローネイタリア語: Caltagirone)は、イタリア共和国シチリア州カターニア県にある、人口約3万8000人の基礎自治体コムーネ)。

陶器の生産地として昔から知られており、マヨリカ焼きテラコッタ陶器が有名である(参照:it:Ceramica di Caltagirone)。

地理

カルタジローネ近郊の田園地帯

位置・広がり

カターニア県南端のコムーネ。ジェーラから北東へ30km、エンナから南南東へ42km、県都カターニアから西南西へ59kmの距離にある[4]

エレイ山とイブライ山の麓にあり、カターニアジェーラを通過する高速道417号線(it)が交差する。

標高608m地点にあるまちは、エレイ山脈の連なりの一部である3つの丘の上に広がる。天然の円形闘技場のかたちであり、ジェーラ湾に注ぐマローリオ川、カターニア平野へ向かって流れるカルタジローネ川の谷の流域である。

隣接コムーネ

隣接するコムーネは以下の通り。括弧内のRGはラグーザ県、CLはカルタニッセッタ県、ENはエンナ県所属を示す。

歴史

サンタ・マリア・デル・モンテ教会

紀元前2000年頃の2箇所のネクロポリスや多くの考古学的な発掘で明らかなように、先史時代から人が定住していた。ローマ帝国以前はシクリ人(en)が住んでいた。

カルタジローネの名が初めて記されたのは、1143年にシチリア王ルッジェーロ2世が記した公文書においてCalatageronとしてである。

アラブ人はシチリアを占領後、カルタジローネの地に城を築いた。彼らはカルタジローネの陶器製造に新たな技術を導入したとみられている。カルタジローネという名称は、アラビア語のqal'at-al-ghiran(花瓶の丘)にちなんでいる。城は1030年に東ローマ帝国の将軍ゲオルギオス・マニアセス指揮下のリグリア軍によって攻撃された。現在のカルタジローネで話される方言にはリグリア語の影響が残っている。また、リグリア人の集団は、カステル・ディ・ユーディカ包囲中のイスラム教徒と対峙するルッジェーロ2世の強力な支援を与えた。これによってカルタジローネはカステル・ディ・ユーディカ、ファタナシモ、レガルセミ、カンポピエトロの領域を所有することとなり、これらは封建制度のまちの富の根源となった。

まちはオートヴィル朝ホーエンシュタウフェン朝時代に繁栄を極め、陶器の製造で有名になった。1154年、ルッジェーロ2世の宮廷にいたアラブ人旅行家イドリースィーはカルタジローネをHisn al-Genūn(ジェノヴァ人の城)と呼んだ。この名称はおそらく、1040年頃にカルタジローネ近郊に現れたジェノヴァ人の入植地にちなんでいる。

13世紀、カルタジローネはいわゆるシチリアの晩鐘における反アンジュー家反乱に参加した。

陶器の生産と結びついた工芸と貿易の発展により、裕福な商人階級が生まれ、イタリア各地から人々が定住した。14世紀には小さなユダヤ人コミュニティーが存在した。現在もユダヤ通り(via ludica)の名が残る。ユダヤ人たちは工芸、特に織物業に従事していた。

1492年、スペインがユダヤ人の追放令を出したために、スペイン統治下のシチリアにいたユダヤ人たちは島から出て行った。カルタジローネのまちは文化的にも経済的にも打撃を受けた。

1671年の飢饉ではおよそ2000人の住民が飢えで死んだ。

カルタジローネのまちは1693年のシチリア地震でほぼ全壊し、その後多くの建築物は地震後にバロック様式で再建された。現在カルタジローネの市街は、UNESCO世界遺産ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々として登録されている。

第二次世界大戦中のカルタジローネは、連合国側の激しい爆撃にあい、いくつかの有名な建物が失われている。1960年代から1970年代、不景気のためカルタジローネは北部への大量人口流出にみまわれた。

社会

カルタジローネの陶器

陶器の生産地として知られている (it:Ceramica di Caltagirone

行政

分離集落

カルタジローネには、以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。

  • Albanazzo, Colleggiata (Collegiata), Favarella, Granieri, Mulino Buongiovanni, Piano Carbone, Piano San Paolo, Rangasia, San Basilio - Casa Prete, San Mauro, Santo Pietro, Serra Fornazzo, Signore del Soccorso, Villa Gravina, Villa Grazia

人物

著名な出身者

姉妹都市

脚注

外部リンク

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