カール・テオドール・イン・バイエルン
カール・テオドール・イン・バイエルン(Herzog Carl Theodor in Bayern, 1839年8月9日 - 1909年11月30日)は、バイエルン公(Herzog in Bayern)の称号を持つバイエルン王国の貴族。バイエルンを初めとするヨーロッパの諸王家と縁の深い上級貴族として生涯を送りながら、眼科の開業医として臨床医療に携わった、異色の人物である。 生涯カール・テオドールは、バイエルン公マクシミリアン・ヨーゼフとその妃であるバイエルン王女ルドヴィカの三男としてポッセンホーフェン城(Schloss Possenhofen)で生まれた。オーストリア皇后エリーザベトは、2歳年上の姉である。エリーザベトは大勢の兄弟姉妹の中でカール・テオドールを最も可愛がり、信頼していた。 14歳でバイエルン軍に入隊し、1866年の普墺戦争に従軍した。のち、軍から離れてミュンヘン大学の学生となり、哲学、法学、経済学、薬学を学んだ。当時彼を教えたのは、ユストゥス・フォン・リービッヒやルートヴィヒ・フォン・ブーアらであった。 1865年2月11日、ドレスデンで従妹にあたるザクセン王女ゾフィー(ザクセン王ヨハンとバイエルン王家出身の王妃アマーリエの娘)と結婚するが、わずか2年後に死別した。 1870年に普仏戦争に派遣されるが、戦後に学問に復帰し、1872年にミュンヘン大学で薬学の名誉博士号を取得した。のちにウィーンやチューリッヒで眼科医となるべく学んだ。 1874年4月29日、クラインホイバッハでポルトガル王女マリア・ヨーゼファ(廃王ミゲル1世と妻アーデルハイトの娘)と再婚した。 1877年、カール・テオドールはマントンで薬学を学び、しばしば2度目の妻マリア・ヨーゼファが補佐したという。1880年、自身の居城テーゲルンゼーに眼科医院を開業した。1895年、「カール・テオドール公眼科医院」(Augenklinik Herzog Carl Theodor)をミュンヘン市内に開業した。この医院は現存しており、バイエルン州で信頼を集める医院の一つである。カール・テオドールは1895年から1909年までの間に、5,000例以上の白内障手術を自身で行った。 1909年にクロイト(Kreuth)で亡くなり、テーゲルンゼー修道院の一族の墓地に葬られた。 子女最初の妻ゾフィーとの間に娘を1人もうけた。 2番目の妻マリア・ヨーゼファとの間に5人の子女をもうけた。
系譜
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