ゲルリッツ
ゲルリッツ(Görlitz [ˈɡœʁlɪts] ( 音声ファイル), ソルブ語: ズホリェルツ Zhorjelc)は、旧オーバーラウジッツ地方(Oberlausitz)、現ザクセン州のナイセ川流域にあるドイツの都市である。現在はドレスデン都市圏に属する。 歴史ゲルリッツの名は、スラヴ語で「燃やされた土地」(町を切り開く際に土地が焼かれた)を意味する言葉(「燃える」や「燃やす」を意味するロシア語のгоретьやチェコ語のhořetと同語源。)に由来する。ゲルリッツが最初に文献に登場するのは、当時ローマ王だったハインリヒ4世が1071年に書いた書簡である。この時の表記が villa Goreliz で、その後13世紀に Gorlez, Gorlicz, Zgorliz と記され、1474年には Görlicz と表記された[2]。13世紀以降、重要道路が交差し、交通の要衝に位置するこの町は交易により発展する。 14世紀にはラウジッツの6都市同盟(Oberlausitzer Sechsstädtebund)を主導した。フス派との戦いでは妥協無しに戦った。1440年頃以後領地を大幅に拡大させた。1500年頃の人口は約1万人を数えた。都市の内部騒乱(1369年、1390年、1405年)は1521年にはルター派の運動に移行した[3]。 三十年戦争以後ザクセン選帝侯の支配下に入り、ナポレオン戦争の後、1815年のウィーン会議によりプロイセン領シュレージエンの一部となった。 第二次世界大戦ではドイツが敗北する直前、町のナイセ川にかかる橋がすべて爆破された。大戦後、オーダー・ナイセ線が東ドイツとポーランドとの国境線とされたため、旧ゲルリッツ市のナイセ川東岸が1948年にポーランド領ズゴジェレツ(Zgorzelec)となり、残りの部分は東ドイツのザクセン州の一部となった。その後ゲルリッツは1952年からドレスデン県に属し、ドイツ統一に際し再設置されたザクセン州に復帰した。 2002年の水害により、ゲルリッツとズゴジェレツを結ぶ橋が損傷したが、2004年10月に復旧した。 ゲルリッツとズゴジェレツの両都市は2007年12月ポーランドがシェンゲン協定に加盟したことにより、検問が廃止されて再度一つの町として発展する方向に向かい、「2030年までに1都市、1行政、1議会」とする計画を立てている[4]。 ゲルリッツ郡(Landkreis Görlitz)の郡庁が置かれている。同郡は、人口流出による少子高齢化と過疎化が著しい[5]。 2017年以降、右派・極右政党の「ドイツのための選択肢(AfD)」の勢力の中心地で、2021年ドイツ連邦議会選挙ではゲルリッツの有権者の30%以上の支持を集め、国内で最高の支持率を記録した[6][7]。 第2次世界大戦による損害をほとんど被らなかったおかげで、このドイツ最東の都市には、中世 ゴシック 、ルネッサンス、バロック、アールヌーボーの見事な建築が多数残されている[8]。 交通姉妹都市ゲルリッツ出身の人物
関連項目出典
外部リンク
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