コンスタンティン・コキナキ
コンスタンティン・コンスタンティノヴィチ・コキナキ(Konstantin Konstantinowitsch Kokkinaki 、Константин Константинович Коккинаки、1910年3月11日 - 1990年3月4日)はソビエト連邦の軍人、パイロットである。最終階級は空軍大佐。テストパイロットとして多くの機種に関わり、また撃墜数14(うち共同7)のエース・パイロットでもある。ソ連邦英雄、レーニン賞(3回)。兄のウラジミール・コキナキ少将もテスト・パイロットとして有名である。 経歴ノヴォロシースクでポントス人の貧しい鉄道労働者の家に生まれた。7年制学校を卒業後は救助船の船員として働いていたが、1929年にコムソモールの指示で赤軍に志願[1]。1931年にソ連共産党に入党[2]。1932年に第7スターリングラード軍用飛行士学校を卒業後、北カフカーズ軍管区の戦闘機隊を経て1936年より海軍太平洋艦隊航空隊[3]。同年11月よりモスクワの第1航空機工廠にてテストパイロットを務め、R-5、R-7DI-6、I-15bis、I-153などを操縦。1939年から1940年までソ連空軍志願隊の戦闘機隊副隊長として日中戦争に参加、重慶防空の任につく。のち戦闘機隊隊長。志願隊本隊撤収後もしばらく軍事顧問として中国に留まる。166回の出撃で個人3、共同4機を撃墜した[4] 。 第二次世界大戦(大祖国戦争)当時、第1航空機工廠に戻りテストパイロットを務めていたが、大祖国戦争の激化に伴いテストパイロットを集め編成された第401特別任務戦闘機連隊副隊長としてベラルーシに展開しドイツ空軍と交戦。2か月後、同隊は第263戦闘機連隊に改編。7月4日、ステパン・スプルーン中佐の戦死に伴い連隊長になる。98回の出撃で撃墜数は個人4、共同3。その後は第30航空機工廠にてテストパイロットを1950年まで務める。 軍を予備役編入後、ソ連邦航空産業省テストパイロット学校(現A・V・フェドロフ名称テストパイロット学校)を経て[5]1951年から1965年までミコヤン・グレヴィッチ設計局第155プラントのテストパイロットを勤め、 MiG-17、MiG-19、MiG-21などの試験飛行を行った。1960年9月30日、MiG-21を改造した E-66で100kmの周回飛行で2148.66 km / hの世界速度記録を樹立し、世界的に有名となった。同年、国際航空連盟からデラボー賞を受賞した。その後は設計局の輸送パイロットを1年間務めた後、主任技術者、1985年以降は先任技術者として晩年まで航空機に携わった[5]。南西区クズミンキー地区のクズミンキー墓地に埋葬された。 姉タチアナの娘ニーナは、ボート競技が好きなスポーツマンで、他の兄弟と比べ爆発的ではなかったが、親切で優しい性格だったと回想する。1947年の夏、学生だったニーナを鞄一杯のジャガイモと小麦粉を乗せてウラジミール、パーヴェルとともにIl-18でモスクワからゲレンジークまで送り届けることがあったという[6]。 親族
栄典
脚注
参考文献
外部リンク
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