サイダ (軽巡洋艦)サイダ (SMS Saida) はオーストリア=ハンガリー帝国海軍の偵察巡洋艦ないし軽巡洋艦。同型3隻のうちの一隻。 艦名は、オーストリアを含む海軍部隊が1840年に攻撃を行ったレバノンのサイダにちなむ[1]。 「サイダ」のタービンには他2艦と異なり、プラハのMaschinenbau AktienGesellschaftでライセンス生産されたドイツのMelms & Pfenningerのものが採用されたが、品質が悪くボイラーとタービンの間で蒸気のロスが生じ速力低下を招くこととなった[2]。 艦歴モンファルコーネのCantiere Navale Triestinoに発注され、1911年9月9日起工[3]。1912年10月26日進水[4]。1914年8月1日就役[4]。 第一次世界大戦1915年5月23日、イタリアはオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦布告。翌日、オーストリア=ハンガリー帝国海軍はアンコーナなどを攻撃した。この時、「サイダ」は巡洋艦「Szigetvár」、駆逐艦「バラトン」、「トリグラフ」とともにFグループを構成し、主力部隊の南方の哨戒を行った[5]。 6月17から18日夜、装甲巡洋艦「ザンクト・ゲオルク」などがリミニとペーザロを攻撃[6]。「サイダ」と巡洋艦「ヘルゴラント」、駆逐艦「ヴェレビト」、「ディナラ」、「レカ」水雷艇5隻はそれを掩護し、またイタリア汽船「Grazia」を沈めた[6]。 7月28日、オーストリア=ハンガリー帝国海軍は巡洋艦「サイダ」、タトラ級駆逐艦6隻などでイタリアが7月11日に占領したペラゴーザ島に対する攻撃を実施[7]。砲撃後に108名を上陸させたが、オーストリア=ハンガリー帝国側は敵兵力を過小評価しており、撃退された[8]。 8月17日、オーストリア=ハンガリー帝国海軍は「サイダ」と巡洋艦「ヘルゴラント」や駆逐艦5隻などで再びペラゴーザ島を攻撃[9]。真水のタンクないし貯水池[10]などを破壊し、この攻撃後イタリア軍は島から撤退した[11]。9月9日、再び島へ向かった「サイダ」と「ヘルゴラント」などは島が無人となっていることを発見した[12]。 11月22日、「サイダ」、「ヘルゴラント」とタトラ級駆逐艦などは出撃してオトラント海峡へ向かい、2隻の船(「Palatino」、「Gallinara」)を沈めた[13]。 12月6日、「サイダ」、「ヘルゴラント」とタトラ級駆逐艦はドゥラッツォ港を攻撃した[14]。なお、この時の参加巡洋艦は「ヘルゴラント」のみとなっている文献[15]もある。 1916年3月、「ヘルゴラント」などとともにドイツ潜水艦「UC12」[16]捜索に従事[12]。 1917年5月15日、「サイダ」と「ヘルゴラント」、「ノファラ」によるオトラント堰襲撃が行われ、オトラント海峡海戦が生起した。この海戦で「サイダ」は3発被弾し負傷者3名を出した[12]。 終戦とその後1918年10月、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し始め、30日に皇帝カール1世は艦隊のザグレブの国民評議会への引き渡しを決めた[17]。しかし、戦後大半の艦艇は連合国間で分配されることとなった[18]。 「サイダ」はイタリアに引き渡され、1920年9月19日に「Venezia」という名前で就役[19]。1937年3月11日に除籍され、その後解体された[19]。 脚注
参考文献
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