サニー・マイヤース
サニー・マイヤース(Sonny Myers、本名:Harold Calvin Myers、1924年1月22日 - 2007年5月7日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ミズーリ州セントジョセフ出身。 アマチュアレスリングで培った技術のもと、ベビーフェイスの技巧派選手として活躍した[3]。 来歴ハイスクールの頃からスポーツ万能で、レスリングでは学生選手権に優勝。大学卒業後プロに転向し[3]、地元のミズーリやカンザスなどの中西部をサーキット・エリアとするセントラル・ステーツ・レスリング(CSW)を主戦場に活動した。 1947年11月3日、アイオワ州でオーヴィル・ブラウンを破りNWA世界ヘビー級王座を奪取、翌年の1948年1月5日にブラウンに奪還されるまでタイトルを保持していたが、現在は王者として認定されていない[4]。1956年には、原告側のリーダーとなってNWAを独占禁止法違反で告訴した[5]。 日本には1960年と1963年に日本プロレスに来日。1960年の初来日時には力道山の持つインターナショナル・ヘビー級王座に2度挑戦している[6]。また、来日中はアントニオ猪木の素質に注目し、猪木を自分に預けろと力道山に掛け合った[5]。 1964年には海外修行でセントラル・ステーツ地区に遠征していた猪木をコーチしており、リングの上でもマイヤースはパット・オコーナー、猪木はトーキョー・トムと名乗ってモンゴリアン・ストンパーをパートナーに、NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座を争っている。その縁故でマイヤースは1966年の東京プロレス旗揚げに協力、選手として参戦する一方で外国人レスラーの斡旋も担当し、ジョニー・バレンタインやジョニー・パワーズの初来日を実現させた[5]。 キャリア晩年の1970年代後半から1980年代前半にかけては、スーパー・デストロイヤーなどを名乗りNWA圏にスポット参戦した。 得意技獲得タイトル
脚注
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