サートゥルナーリア祭では生贄を捧げる古くからの習慣があり、サートゥルヌスの神殿前に生贄を置く長いすを設置し、サートゥルヌス像に普段結ばれていた縄を解き、その年が終わるまでそのままにしておいた。儀式の進行と記録のため、Saturnalicius princeps が選ばれた。公的な儀式の他に、この期間は祝日とされ各家庭でも個別に祝う習慣があった。学校が休みになり、小さなプレゼント (saturnalia et sigillaricia) を作って贈り合い、特別な市 (sigillaria) が開催された。奴隷であってもこの期間だけ公に賭博が許された。もっとも、1年の他の期間に奴隷が賭博行為を全くしていなかったという意味ではない。
「タルムード」と「ミシュナー」(Avodah Zara 8a) には、冬至の8日前に始まる Saturna と呼ばれる異教の祭りについての記述がある。それによるとその祭りが8日間続いた後、Kalenda という祭りがあったという。「タルムード」ではこの祭りをアダムが起源だとしている。アダムは冬至に向かって徐々に日が短くなっていくのを彼に対する処罰だと考えた。彼は世界が創世以前の混沌と空虚へと回帰することを恐れ、8日間座って絶食した。そして再び日が長くなったことに気づき、それが自然のサイクルであると理解した。このため、この8日間を祝うようになった。「タルムード」ではこの祭りが後に異教の祭りに変化したとしている[7][8]。
クリスマスとの関係
クリスマスと謝肉祭の起源の一つとの考え方もある[9][3][10]。
紀元1世紀ごろの初期のキリスト教徒がイエス・キリストの誕生日を知っていたという歴史的証拠はない。実際、当時のユダヤ人の法律や慣習では、誕生日は全く記録されなかったと見られている。World Book Encyclopedia(第3巻、p416)によれば、初期のキリスト教徒は誕生日を祝う習慣は異教徒のものだと見なしていた。実際イエスが自分の生涯について何らかの記念に類することを命じたのは、死に際してのことだけだった(ルカによる福音書、22:19)。クリスマスに類する祝祭が初めて記録に見られるようになるのは、イエス・キリストの死後数百年後のことである[11]。新しいブリタニカ百科事典では、冬至の後の太陽の復活を祝う古代ローマの習慣に日付を合わせたとしている(ミトラ教)。この祝祭には現代のクリスマスと同様に贈り物をしたりご馳走を食べる習慣があった。