1871年のシカゴ大火から目覚ましい復興を遂げたシカゴ市は、1890年にアメリカ政府から博覧会の開催都市として指名され、ミシガン湖畔の67万坪以上に渡るジャクソン公園付近を3年がかりで造成し、展示のためのCourt of Honor地区と娯楽のためのMidway地区からなる広大な会場に約200の建物が建造された[3]。
メイン会場となるCourt of Honor地区には、美術館、連邦政府館、園芸館、工芸館、農業館、機械館、管理棟など、アメリカの繁栄を示すにふさわしいと考えられた豪華な新古典主義建築の建物が建てられ、アメリカを中心に、各国からの工芸、美術、機械などがテーマごとに展示された。煉瓦造りに漆喰塗りの美術館を除き、木造をスタッフ(焼石膏と麻の繊維などを混ぜたもの)で塗り固めた張りぼて建築ではあったが[4]、建物が白一色に統一されていたことから「ホワイト・シティ」と通称された。アメリカの技術力を誇示するため電気が多用された点と、女性の企画運営による「女性館」が設置された点が特徴的だった。一方、遊興を目的としたMidway地区には世界初の巨大観覧車「フェリスの車輪」など大型の遊具が設置されたほか、国際色豊かな店が並び、好評を得た[5]。そのほか、コロンブスの航海に使われた帆船のレプリカ、ヤーキスの大望遠鏡、ニューヨークと結んだ長距離電話、動く歩道など、当時の最先端技術が披露された[1]。
アメリカの繁栄を誇示する華やかな博覧会の陰で、多くのものが排除・無視された。19世紀末のアメリカは急激な工業化により新興成金が台頭し、貧富の差が極端に拡大していた。万博に象徴される富裕層の並み外れた豪奢さに対し、労働者、先住民、有色人種は過酷な状況に置かれていた。シカゴにはスラム街が広がり、不衛生極まりない環境に暮らす庶民たちは貧困と伝染病に苦しんでいた。そうした中、万博会場だけが美しく整備され、「純粋な白人」のみで構成された万博委員会は人種差別を公とした[1]。黒人団体が抗議したが、奴隷解放宣言から30年経ってなお、政府は委員会の判断を承認した[1]。シカゴの不動産王の妻が委員長を務める女性館への黒人の参加も無視され、黒人女性活動家らが「万博に黒人のアメリカ人がいない理由(The Reason Why the Colored American Is Not in the World's Columbian Exposition)」という抗議の小冊子を作り、会場で販売した[1](当時Colored Americanはアフリカ系アメリカ人を指した)。先住民の展示は野蛮なインディアンを印象付けるような感傷的なものに限っており、そのことに抗議したスタッフは解雇された[11]。
1973年にシカゴ市と姉妹都市となった大阪市の資金援助で庭園が整備し直され、1981年に再寄贈された。設計をした日系アメリカ人の造園師・カネジ・ドウモトはこれによってフレデリック・ロー・オルムステッド賞を1983年に受賞した。シカゴ・大阪姉妹都市20周年の1993年には「Osaka Garden(大阪庭園)」と改名され、日本文化を知る格好の場所として市民に親しまれていたが、2013年には庭園120周年を記念して日米交流の印として120本の桜が植えられ、2014年に「The Garden of the Phoenix(鳳凰庭園)」と改名された[13]。
The World's Congress of Religions-The addresses and papers delivered before the Parliament, and the Abstract of the Congresses, held in Chicago, August 1893 to October 1893, under the Auspices of The World's Columbian Exposition, Tokyo: Edition Synapse. ISBN 978-4-901481-98-4 www.aplink.co.jp/synapse/4-901481-98-3.htm