シグエンサ
シグエンサ(スペイン語: Sigüenza)は、スペイン・カスティーリャ=ラ・マンチャ州グアダラハーラ県のムニシピオ(基礎自治体)。県北部に位置し、県都グアダラハーラから73km離れている。 地勢・経済イベリコ山系やセントラル山系に近接する。自治体の中で標高の低い場所でも標高950m程度を有する。シグエンサから12km離れたオルナでエナレス川が発する。ドゥルス川とサラド川は、エナレス川の重要な支流である。 農業と牧畜業が伝統的に行われてきたが、現在は多様化し、サービス業と観光業が多くを占めてきている。 歴史シグエンサは、かつてケルティベリア人のアレヴァシ族の定住地セゴンティア(Segontia)があった地である。現在、旧市街を意味するビリャビエハ(Villavieja)は、現在のシグエンサ市街から半リーグの場所にある。リウィウスは、ケルティベリア人とのカトーの戦いについての論争の中で、この町に触れた。 ローマ帝国、西ゴート王国、ムーア人と、数世紀の間に支配者は移り変わった。シグエンサ司教座の歴史は非常に古く、589年に行われた第三回トレド公会議に代表を送っている。イスラム支配下でもキリスト教徒は信仰が保証され、シグエンサ司教座は絶えなかった。しかし、後にシグエンサから人口が流出し打ち捨てられたらしい。カスティーリャ王アルフォンソ6世がこの地域全体を征服した際、征服した都市の中にシグエンサの名が上がっていないからである。再植民が行われた後の1123年頃、初代シグエンサ司教としてベルナルド・デ・セディラクが着任した。1140年3月10日、アルフォンソ7世はシグエンサ司教を、シグエンサの封建領主とした。その後14世紀まで、シグエンサ司教は小規模な司教公領を保持し続けた。シグエンサは第一次カスティーリャ継承戦争において重要な役割を演じた。1355年、ペドロ1世の王妃ブランカ・デ・ボルボーンがシグエンサ城に幽閉された。 1468年、ペドロ・ゴンサーレス・デ・メンドーサがシグエンサ司教となった。彼はイサベル1世の元で権世を誇った政治家であり、シグエンサ司教座をトレド大司教座と統合した。 スペイン内戦では、フランコ側のグアルディア・シビルが町の最も高い場所にある城を要塞化する一方で、共和軍が低い場所にある大聖堂を確保していた。 史跡
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