ノーベル賞 受賞者
受賞年: 1901年
受賞部門: ノーベル文学賞
受賞理由: 高尚な理想主義と芸術的完成度の形跡、心情と知性の両方の資質の珍しい組み合わせを与える、詩的な構成物に対して
シュリ・プリュドム(1880年代 )
『Épaves 』に収められた詩『科学と詩(Science et poésie )』
ペール・ラシェーズ墓地 にあるシュリ・プリュドムの墓
シュリ・プリュドム (フランス語 :Sully Prudhomme 、1839年 3月16日 - 1907年 9月6日 )は、フランス ・パリ 出身の詩人 、随筆家 。 本名 はルネ・フランソワ・アルマン(・シュリ)・プリュドム (René François Armand (Sully) Prudhomme )。
1865年 に出版 された処女作 の詩集 『詩賦集[ 1] (Stances et Poèmes )』は同国のロマン主義 を代表する詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌ を髣髴させるような文体 で、哀愁に満ちたその内容は「近代批評 の父 」と呼ばれた同国の文芸評論家 であるシャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴ から称賛され、文筆活動を行うきっかけになった。また『詩賦集』に収められた詩 『壊れた花瓶(Le Vase Brisé )』は失恋 をもとに壊れた心の優美な隠喩 をうたっており、シュリ・プリュドムの作品を代表する詩になっている。
詩人としては高踏派 に属したが翻訳家 としても古代ローマ の詩人、哲学者 のルクレティウス が残した『事物の本性について (英語版 ) 』をフランス語 に翻訳 したりと、文学や科学 、哲学 の調和 を図ろうとした業績が評価され、1901年 に「高尚な理想主義と芸術的完成度の形跡、心情と知性の両方の資質の珍しい組み合わせを与える、詩的な構成物に対して」記念すべき第一回ノーベル文学賞 を受賞した。初代ノーベル文学賞受賞者となったシュリ・プリュドムは獲得した賞金 のほとんどを文学 の協会 に寄付し、1902年 にはフランス詩人の会 (英語版 ) など、文学の協会の創設に携わっている。
同国のジャーナリスト 、政治家 のプロスペル・デュヴェルジェ・ド・オーランヌ (フランス語版 ) が1881年 に亡くなると、同年から1907年 にかけてアカデミー・フランセーズ の第14代座席番号24に就任し、シュリ・プリュドムの死後は同国の数学者 アンリ・ポアンカレ がその席に就いた。またアカデミー・フランセーズの会員に在籍中の1895年 にはレジオンドヌール勲章 のシュヴァリエ が受勲 されている。
甥 に同国の画家 、イラストレーター でコケットリー を風刺した絵で知られたヘンリー・ジェルボー を持ち、シュリ・プリュドムは生涯を孤独に過ごしたため、ジェルボーが唯一相続人 として遺産 を受け取っている。
生涯
1839年3月16日、フランスのパリに裕福な商人 の家庭にルネ・フランソワ・アルマン(・シュリ)・プリュドム(René François Armand (Sully) Prudhomme )として生まれる。はじめは技術者 を志してリセ・ボナパルト(Lycée Bonaparte 、現:リセ・コンドルセ )で学んでいたが、眼病 を患ってしまったため退学を余儀なくされ、エンジニア としてのキャリアを断念することになった[ 8] 。その後はフランス東部のソーヌ=エ=ロワール県 ル・クルーゾ にあるシュナイダー (企業) (英語版 ) 社(現:シュナイダーエレクトリック )で働いたが、やがて法律 の道へ興味を示すようになり、弁護士 として勤務した。この頃、所属していた学生サークル の「ラ・ブリュイエール会議(Conférence La Bruyère )」で詩を発表するようになり、評価を受けたため文学の道を歩むきっかけになった。
1865年には処女詩集『詩賦集[ 1] 』を発表し、同国の文芸評論家であるサント=ブーヴから称賛され、高踏派の詩人として執筆活動に励むようになった。翌年1866年には『試練(Les Épreuves )』、1869年には『孤独(Les Solitudes )などの詩集を発表し、本格的に詩人としての地位を確立した。この頃に同国の詩人、劇作家 のシャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リール が編集した『現代高踏詩集』にも詩を寄せていたが、1870年代の後半に入ると古代ローマの詩人、哲学者のルクレティウスが残した『事物の本性について』を翻訳したりと、初期の叙情的な作風から離れていった。
1878年に詩集『正義(La Justice )』を、その10年後に『幸福(Le Bonheur )』を発表したが、文学的な手法の極端な節約は、詩情を損ねる結果となりその作風は既に哲学的な内容になっていた。
1890年代後半は同国の生理学者 で1913年 にノーベル生理学・医学賞 を「アナフィラキシー の研究」で受賞することになるシャルル・ロベール・リシェ と知り合い、雑誌『科学雑誌 (フランス) (フランス語版 ) 』にも関心を示し、リシェの寄稿する文章にシュリ・プリュドムが返答する形で同じように文章を寄せていた。
1894年 に起きたドレフュス事件 に際しては最初にアルフレド・ドレフュス の擁護者になった。
1901年、アカデミー・フランセーズが第一回ノーベル文学賞の受賞者にシュリ・プリュドムを推薦 した。1901年当時はロシア の文豪 として世界的に有名だったレフ・トルストイ が存命中で、誰もが初代ノーベル文学賞の受賞者はトルストイだと思っていたが、スウェーデン・アカデミー は「トルストイの主張する絶対平和主義 には無政府主義 的な意味合いが強くノーベル文学賞の趣旨に合っていない」や「トルストイがあまりにも偉大だったため、畏れ多くて授与しなかった」という見解を述べ、シュリ・プリュドムが「高尚な理想主義と芸術的完成度の形跡、心情と知性の両方の資質の珍しい組み合わせを与える、詩的な構成物に対して」ノーベル文学賞を受賞することになった。これは同時にシュリ・プリュドムがフランス人 として初めて、そして記念すべき初代ノーベル文学賞受賞者となるのだが、この結果に対してスウェーデン では一部の作家 が抗議活動を行うなどの世論 の批判が相次ぐことになってしまった[ 9] 。ノーベル文学賞を受賞したシュリ・プリュドムは妻 もおらず、生涯を孤独に過ごしたため、莫大な賞金は自分に必要ではないと思い、その大半をフランス詩人の会などの創設に寄付し、20世紀 フランス文学 の発展に寄与している。
1870年に起きた普墺戦争 で健康を残ったシュリ・プリュドムは、晩年オー=ド=セーヌ県 のシャトネ=マラブリー に引っ越し、孤独な一生を過ごした。1905年には同国の哲学者ブレーズ・パスカル に関する哲学書 『パスカルの真の信仰(La Vraie Religion selon Pascal )』を著した。
1907年9月6日に急死。満68歳であった。遺体 はパリのペール・ラシェーズ墓地 に葬られた。葬式 には同国の詩人フランソワ・コペー や批評家のジュール・ルメートル (英語版 ) 、歴史家 のフレデリック・マッソン (英語版 ) が出席した。シュリ・プリュドムの遺産は甥の画家、イラストレーターのヘンリー・ジェルボーが相続人となった。
後の影響
作品
シュリ・プリュドムの作風は、初期こそは高踏派に属し、形式の探求と結び付いた個性的なスタイルに向かっていたが、次第に哲学にのめり込んだため道徳的な省察 が作品に見受けられるようになった。日々の愛情をうたった代表作『壊れた花瓶』は広く親しまれている。
詩
1865年、『詩賦集[ 1] (Stances et Poèmes )』 - 訳し方によっては『スタンスと詩』など。この中に収められた『壊れた花瓶』が有名。
1866年、『試練(Les Épreuves ) - 訳し方によっては『試み』など。
1868年、『Croquis italiens 』
1869年、『孤独(Les Solitudes )
1870年、『Les écuries d'Augias 』
1872年、『運命(Les Destins )』
1872年、『Impressions de la guerre 』
1872年、『La révolte des fleurs 』
1874年、『フランス(La France )』
1875年、『むなしい愛情(Les Vaines tendresses )』 - ガリカ( フランス国立図書館 の電子サイト)で閲覧可能。
1876年、『ゼニス(Le Zénith )』 - フランスの月刊誌 『両世界評論 』に収められた。
1878年、『正義(La Justice )』
1886年、『Le Prisme, poésies diverses 』
1888年、『幸福(Le Bonheur )』
1865年 - 1888年、『詩(Poésie )』
1908年、『Épaves 』 - 死後に出版された。
哲学書
1905年、『パスカルの真の信仰(La Vraie Religion selon Pascal )』 - ガリカ で閲覧可能。
散文
1889年4月20日、『La tour Eiffel 』 - 『科学雑誌 (フランス) (フランス語版 ) 』に発表された。
1890年5月31日、『Les autographes de « la nature » 』 - 『ネイチャー (フランス) (英語版 ) 』に発表された。
1893年、『Sur l'origine de la vie terrestre 』
1899年1月28日、『L’esprit scientifique et la théorie des causes finales 』 - 『科学雑誌』に発表された。
1899年3月4日、『L’anthropomorphisme et les causes finales 』 - 『科学雑誌』に発表された。
1899年4月15日、『Le darwinisme et les causes finales 』 - 同国の生理学者 シャルル・ロベール・リシェ への返答として『科学雑誌』に発表された。
1899年5月20日、『Méthodes expérimentales et causes finales 』 - リシェへの返答として『科学雑誌』に発表された。
1899年8月12日、『Critique du principe finaliste et de ses applications à la science 』 - 『科学雑誌』に発表された。
1899年12月9日、『Le libre arbitre devant la science positive 』 - 『科学雑誌』に発表された。
1902年、『Les causes finales 』
1922年、『Journal intime : lettres-pensée 』 - 死後に出版された。
その他
1884年、『L'Expression dans les beaux-arts 』
1892年、『Réflexions sur l'art des vers 』
日本語訳
『ノーベル賞文学全集 23』(主婦の友社 、1971年) - フランス文学者 川崎竹一 が訳した『シュリィ・プリュドム詩抄』『心の日記(抄)』が収められている。
上田敏 『海潮音 』(本郷書院 、1905年) - シュリ・プリュドンという表記揺れが見られるが、この中にシュリ・プリュドムの『夢』という詩が収められている。
脚注
フランス語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
フランス語版ウィキクォートに本記事に関連した引用句集があります。
^ a b c d e 『スタンスと詩 』という表記揺れも存在するが、本項目では『詩賦集 』として統一する。
^ シュリ・プリュドムとは - コトバンク 、2016年11月7日閲覧。
^ 柏倉康夫 『ノーベル文学賞 : 作家とその時代』(丸善 、1992年)、p8 - 9。
^ [1]
^ [2]
^ 湯川秀樹 『旅人 ある物理学者の回想』(角川文庫 、1991年)、p120。
参考文献
倉田清 文章著『万有百科大事典 1 文学』(小学館、1973年)
倉田清文章著『大日本百科事典 9 しやーしんさ』(小学館、1967年)
桜田佐 文章著『世界大百科事典 14 シャーシュ』(平凡社、1972年)
阿部良雄 文章著『新潮 世界文学小辞典』(新潮社、1971年)
滝田文彦 文章著『グランド現代百科事典 15 シツキーシヨウオ』(学習研究社、1983年)
『世界文化大百科事典 6 シヤフーセンソ』(世界文化社、1971年)
外部リンク