ジャン=フレデリック・フェリポー・ド・モールパモールパ伯爵ジャン=フレデリック・フェリポー(フランス語: Jean-Frédéric Phélypeaux, comte de Maurepas、1701年7月9日 - 1781年11月21日)は、フランス王国の政治家。 生涯フランス海軍大臣ジェローム・フェリポー・ド・ポンシャルトランの息子として、1701年7月9日にヴェルサイユで生まれた[1]。父が海軍大臣の職を世襲権つきで購入したため、子供の頃から国務大臣となるための教育を受け[2]、14歳で海軍省に入った[1]。 1718年、17歳という若さで(ラ・ヴリリエール侯爵の監護下とはいえ)宮内大臣に就任した。1723年8月16日には海軍大臣に正式に就任、海軍、植民地と海運を管理した[2]。1738年に国務会議に入り[3]、ラ・ヴリリエール侯爵(1725年没)の死後も海軍大臣に留まったが、1749年4月23日[2]にポンパドゥール夫人を風刺したエピグラムが原因となってパリから追放された[1]。リシュリュー公爵によるクーデターだったという[3]。 海軍大臣の任期中、モールパはフランス海軍を再建、特に1730年代と1740年代には新大陸の植民地帝国の守備を強化した[4]。モールパは効果的な情報機関を維持して、北米に向かうイギリス艦船の情報を得たため[5]、それを守備の計画に活用することができた。トゥループ・ド・ラ・マリン(フランス領カナダの海兵隊)への予算の大幅増も追い風となり、1720年代から1730年代にかけて900万リーブル程度だった予算が1739年に1,920万、1740年に2,000万、1741年に2,600万、1742年に2,700万リーブルと増える一方だった[2]。 1774年にルイ16世が国王に即位すると、モールパは国務大臣になり、ジャック・テュルゴーを財務大臣に、クレティアン=ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブを宮内大臣に、シャルル・グラヴィエ・ド・ヴェルジャンヌを外務大臣に任命した[1]。しかし、ルネ・ニコラ・シャルル・オーギュスタン・ド・モプーが廃止した高等法院を復活させるという失政を犯し、フランス革命の遠因を作ってしまった。テュルゴーがルイ16世への影響力を強めたため陰謀をめぐらし、1776年にテュルゴーを追い落としたが、代わりにジャック・ネッケルを任命したため6か月間の混乱を引き起こし、さらに1781年には今度はネッケルを見捨てた[1]。同年11月21日、ヴェルサイユで死去した[1]。 死後アメリカ合衆国ルイジアナ州のモールパ湖はモールパ伯爵に因んで名づけられ、モールパの新大陸への影響が垣間見える[3]。 家族1718年、マリー=ジャンヌ・フェリポー・ド・ラ・ヴリリエール(Marie-Jeanne Phélypeaux de La Vrillière)と結婚した。 脚注
関連項目
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