ジョン・オーウェン (1754年没)ジョン・オーウェン(英語: John Owen、1702年? – 1754年2月20日)は、グレートブリテン王国の政治家。1741年から1747年までと1753年から1754年までの2度にわたって庶民院議員を務めた。 生涯弁護士ジョン・オーウェン(John Owen)と2人目の妻レティス・ウィリアムズ(Lettice Williams、デイヴィッド・ウィリアムズ)の次男として、おそらく1702年に生まれた[1]。1719年11月16日、オックスフォード大学ジーザス・カレッジに入学した[2]。1721年に兄ウィリアムが死去すると、その遺産を継承した[1]。 1741年イギリス総選挙でアングルシー選挙区から出馬した[4]。アングルシー選挙区ではバークリー子爵家(トーリー党の家系)とオーウェン・メイリック(Owen Meyrick)率いるホイッグ党員が議席をめぐって激しく争っていたが、前回の総選挙では野党派ホイッグ党に属するニコラス・ベイリーが両者の支持をとりつけて無投票で当選した[4]。1741年の選挙ではバークリー子爵家とメイリックの争いが再燃、第6代バークリー子爵ジェームズ・バークリーがベイリーを支持する一方、ベイリーと同じく野党派ホイッグ党に属するジョン・オーウェンは次の総選挙でメイリックの息子を支持すると許諾して、メイリックからの支持を確保した[4]。選挙戦の結果、オーウェンは232票を得てベイリー(127票)を破った[4]。 議会では常に野党の一員として投票した[1]。1747年イギリス総選挙ではバークリー子爵がベイリーを、オーウェンがメイリックの同名の息子(1705年 – 1770年[5])を支持するという、1741年の総選挙と同じ構図だったが、投票の3日前にメイリックとバークリー子爵が「ベイリーが立候補を取りやめ、その代償として次回の総選挙でメイリックがベイリーを支持する」という協定を交渉した[4]。オーウェンはこの協定により自分が議会から14年間も締め出されると考えてバークリー子爵側につき、これによりメイリックは勝ち目がないと判断して選挙戦から撤退、ベイリーが当選する結果となった[4]。 1747年の総選挙でバークリー子爵側についたことで、バークリー子爵家はその褒賞として1753年にビューマリス選挙区[注釈 1]で行われた補欠選挙でオーウェンを当選させた[1]。 しかし、1741年の総選挙で出費が重なったオーウェンは自領の大半を売却せざるを得ず[1]、ロンドンに向かう道中の1754年2月20日に死去した[3]。生涯未婚だった[1]。 脚注注釈出典
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