ジョン・ホバート (第2代バッキンガムシャー伯爵) トマス・ゲインズバラ による肖像画、1786年。
第2代バッキンガムシャー伯爵 ジョン・ホバート (英語 : John Hobart, 2nd Earl of Buckinghamshire PC FRS FSA 、1723年 8月17日 – 1793年 8月3日 )は、グレートブリテン王国 の貴族 、政治家 。庶民院 議員、王室会計監査官 (英語版 ) 、アイルランド総督 を務めた[ 1] 。
生涯
初代バッキンガムシャー伯爵ジョン・ホバート と1人目の妻ジュディス(Judith 、1727年2月7日没、ロバート・ブリッティフの娘)の息子として、1723年8月17日にグリニッジ で生まれた[ 1] 。1732年から1739年までウェストミンスター・スクール に通った後[ 2] 、1739年10月30日にケンブリッジ大学 クライスツ・カレッジ に入学したが[ 3] 、学位を修得しないまま大学を出た[ 4] 。1745年10月4日、ノーフォーク 州の副統監 に任命された[ 4] 。1746年から1747年にかけてグランドツアー に出て、イタリアを旅した[ 2] 。
1747年イギリス総選挙 でホイッグ党 候補としてセント・アイヴス選挙区 (英語版 ) とノリッジ選挙区 (英語版 ) から出馬した[ 2] 。セント・アイヴスではバッキンガムシャー伯爵家が2議席ともに掌握しており、ホバートは無投票で当選した[ 5] 。ノリッジでは父の影響力により有力者との妥協が成立し、ホバートは無投票で当選した[ 6] 。ホバートはノリッジの代表として議員を務め[ 1] 、議会で政府を支持した[ 7] 。1754年イギリス総選挙 ではノリッジにて無投票で再選した[ 8] 。
1756年1月1日に王室会計監査官 (英語版 ) に任命され、同年11月までに退任した[ 9] 。1月27日に枢密顧問官 に任命された[ 1] 。9月22日に父が死去すると、バッキンガムシャー伯爵 位を継承[ 1] 、12月14日に貴族院 議員に就任した[ 4] 。11月15日に寝室侍従(Gentleman of the Bedchamber )に任命された[ 10] 。
1762年7月17日に在ロシアイギリス特命全権公使 (英語版 ) に任命された[ 4] 。公使としての任務はロシア帝国 との通商条約締結であり、1762年12月にモスクワ での交渉が始まったが、ロシアは政治的な条約(すなわち、同盟条約)の締結を望み、1763年8月に提案した条約草案ではイギリスがロシアのスウェーデン 、ポーランド での権益を支持、オスマン帝国 との戦争においてロシアを支援することを約束させられたため、イギリスには受け入れられなかった[ 4] 。二国間のすれ違いのうえ、バッキンガムシャー伯爵の交渉が精力と機転に欠き、1764年8月には北部担当国務大臣 の第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギュー が交渉を進めることと帰国の2択を伯爵に突きつけた[ 4] 。こうして、バッキンガムシャー伯爵は後任のジョージ・マカートニー と交渉の引き継ぎをしたのち、1765年1月にロシアを発って帰国した[ 4] 。その後、1766年10月にチャタム伯爵内閣 が成立すると、在スペインイギリス大使 への就任を打診されたが、これを辞退した[ 4] 。
1765年印紙法 に伴う騒動に加担した人物への恩赦について、第4代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセル は1767年4月に国王ジョージ3世 への請願でマサチューセッツ湾植民地 の法律も検討するよう求めたが、バッキンガムシャー伯爵がこの請願に賛成したことで、同年11月に寝室侍従を解任された[ 4] 。
1776年12月18日にアイルランド総督 に任命され[ 4] 、1777年1月25日に就任宣誓をした[ 1] 。しかしバッキンガムシャー伯爵は自身の能力への自信がなく、同時に就任したアイルランド主席政務官 (英語版 ) リチャード・ヘロン (英語版 ) も能力不足だったため、首相 ノース卿 は何度もバッキンガムシャー伯爵を更迭しようとした[ 11] 。バッキンガムシャー伯爵が総督を務めた時期にはイギリスがアメリカ独立戦争 を戦っており、1779年にアイルランド愛国党 (英語版 ) とアイルランド志願軍 (英語版 ) が自由貿易 を要求したが、バッキンガムシャーにはこの危機に対処する力がなかった[ 11] 。以降も1780年のポイニングス法 (英語版 ) 反対動議、アイルランド抗命法(Irish Mutiny Act )といった危機が続き、バッキンガムシャー伯爵は1780年11月に更迭され、第5代カーライル伯爵フレデリック・ハワード が後任となった[ 11] 。以降は1783年のフォックス=ノース連立内閣 を支持、1788年から1789年の摂政法危機でも首相小ピット が提出した摂政法案に反対した[ 4] 。
1784年4月1日、ロンドン考古協会 フェローに選出された[ 1] 。1785年2月3日、王立協会フェロー に選出された[ 12] 。
1793年9月3日にノーフォーク 州ブリックリング (英語版 ) で死去、同地で埋葬された[ 1] 。息子3人が全員夭折しており、異母弟ジョージ (英語版 ) が爵位を継承した[ 1] 。
家族
1761年7月14日、メアリー・アン・ドルーリー(Mary Anne Drury 、1740年6月29日 – 1769年12月30日、初代準男爵サー・トマス・ドルーリー (英語版 ) の娘)と結婚[ 1] 、4女をもうけた[ 2] 。
1770年9月24日、キャロライン・コノリー(Caroline Conolly 、1817年1月26日没、ウィリアム・ジェームズ・コノリー (英語版 ) の娘)と再婚[ 1] 、3男1女をもうけた[ 2] 。
出典
^ a b c d e f g h i j k l m n Cokayne, George Edward ; Gibbs, Vicary , eds. (1912). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Bass to Canning) (英語). Vol. 2 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 401–402.
^ a b c d e Cruickshanks, Eveline (1970). "HOBART, John, Lord Hobart (1723-93), of Blickling, nr. Norwich, Norf." . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2024年8月9日閲覧 。
^ "John HOBART (HBRT739J)" . A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
^ a b c d e f g h i j k Kelly, James (3 January 2008) [23 September 2004]. "Hobart, John, second earl of Buckinghamshire". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi :10.1093/ref:odnb/13394 。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入 。)
^ Cruickshanks, Eveline (1970). "St. Ives" . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2024年8月9日閲覧 。
^ Sedgwick, Romney R. (1970). "Norwich" . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2024年8月9日閲覧 。
^ Namier, Sir Lewis (1964). "HOBART, John, Lord Hobart (1723-93), of Blickling, Norf." . In Namier, Sir Lewis ; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2024年8月9日閲覧 。
^ Brooke, John (1964). "Norwich" . In Namier, Sir Lewis ; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2024年8月9日閲覧 。
^ Bucholz, Robert Orland, ed. (2006). "The household below stairs: Comptroller of the Household 1660-1837" . Office-Holders in Modern Britain (英語). Vol. 11. London: University of London. pp. 399–400. British History Onlineより。
^ Bucholz, Robert Orland, ed. (2006). "The bedchamber: Gentlemen of the Bedchamber" . Office-Holders in Modern Britain (英語). Vol. 11. London: University of London. pp. 14–19. British History Onlineより。
^ a b c Geoghegan, Patrick M. (October 2009). "Hobart, John" . In McGuire, James; Quinn, James (eds.). Dictionary of Irish Biography (英語). United Kingdom: Cambridge University Press. doi :10.3318/dib.004035.v1 。
^ "Hobart; John (1723 - 1793); 2nd Earl of Buckinghamshire" . Record (英語). The Royal Society . 2024年8月9日閲覧 。
^ Cokayne, George Edward ; Gibbs, Vicary , eds. (1912). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Bass to Canning) (英語). Vol. 2 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 111.
^ Cokayne, George Edward ; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1932). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Lindley to Moate) (英語). Vol. 8 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. p. 154.
^ Cokayne, George Edward ; White, Geoffrey H., eds. (1953). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Skelmersdale to Towton) (英語). Vol. 12.1 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. p. 426.
^ Cokayne, George Edward ; Doubleday, Herbert Arthur; Howard de Walden, Thomas , eds. (1936). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Moels to Nuneham) (英語). Vol. 9 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. p. 317.
^ Cokayne, George Edward ; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1932). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Lindley to Moate) (英語). Vol. 8 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. pp. 111–112.
外部リンク