タウラゲ
タウラゲ(リトアニア語: Tauragė、 発音 )は、リトアニアの都市。タウラゲ郡の中心都市であり、タウラゲ地区自治体の中心都市でもある。ユーラ川沿いに位置する工業都市で、ロシア連邦・カリーニングラード州との国境やバルト海岸に近い。 都市の名称リトアニア語で「タウラゲ」は2つの単語からなっている。1つは「タウラス」(tauras) で「野牛」を意味し、もう1つは「ラガス」(ragas) で「ツノ」を意味する。タウラゲの市章も野牛のツノをかたどったものとなっている。 タウラゲは、ドイツ語で Tauroggen 、ポーランド語で Taurogi 、 ロシア語で Таураге 、 イディッシュ語で טאווריק (Tovrik) と呼ばれる。 歴史1655年にラジヴィウ家(ラドヴィラ家)の者が移り住んでから、タウラゲはリトアニアにおけるルター派の中心都市となった。ルドヴィカ・カロリナ・ラジヴィウがブランデンブルク辺境伯ルートヴィヒと結婚したことにより、1691年から1795年にかけてタウラゲはブランデンブルク=プロイセン領となる。その後はロシア帝国領となった。 1807年6月21日、ロシア皇帝アレクサンドル1世とナポレオン・ボナパルトはタウラゲで休戦協定を結び、その後ティルジットで講和条約を結んだ。1836年、火災により市内の大半が焼失。 1915年、第一次世界大戦により、タウラゲ市内の施設の多くがドイツ軍によって破壊された。1927年9月9日、スメトナ政権に対する蜂起が起きた(タウラゲ蜂起)が、すぐに鎮圧された。1940年にソヴィエト連邦がリトアニアを占領すると、タウラゲ城は反体制派のリトアニア人やポーランド人捕虜を収監しておく場所として利用された。ソ連が占領していた1940年には多くの現地住民がシベリアへと送られた。ロマン・アブラモヴィッチの両親や親戚もシベリアへと送られたが、そのためにその後起きたホロコーストからは免れることができた。1941年6月22日、ドイツはバルバロッサ作戦を開始、ソ連軍が撤退し、タウラゲはその日のうちにドイツ国防軍に占領された。約4,000人のユダヤ人がタウラゲやその周辺の村で殺害された。1944年の秋、ソ連が再び占領したことでドイツの占領は終わった。その後1990年までソ連による占領は続いた。 人口
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