ダカール沖海戦
ダカール沖海戦[3](ダカールおきかいせん)は、第二次世界大戦中の1940年9月下旬、イギリス海軍を主力とする連合国軍と、フランス海軍(ヴィシー政権)との間で行われた戦闘[4]。作戦名はメネス作戦[5]、Operation Menace[注釈 3]。ドゴール将軍が率いる自由フランス軍がイギリス艦隊の支援の下でフランス領西アフリカのダカール(現・セネガル)へ上陸しようとしたが[7]、ヴィシー軍に拒否されて戦闘になる[8][注釈 4]。 イギリス艦隊は艦砲射撃や空襲をおこなったが、戦艦レゾリューション (HMS Resolution) が潜水艦の雷撃で大破するなどして撃退された。 背景1940年(昭和15年)5月、ドイツ国防軍 (Wehrmacht) の侵攻により連合国軍は西部戦線で大敗した[10][11]。フランス陸軍のシャルル・ド・ゴール将軍はフランスからイギリスに脱出した[12]。そして6月18日の呼びかけをおこなう[13]。イギリスにおいて自由フランス(亡命政権)が樹立し[注釈 5]、同時に自由フランス軍も発足する[15]。 同18日(19日とも)、新鋭戦艦リシュリュー (cuirassé Richelieu) は未就役の状態でブレスト軍港を出発、アフリカ大陸のダカールに向けて脱出した[16][注釈 6]。それから間もなくフランスは6月22日にドイツと独仏休戦協定を、6月24日にイタリア王国と休戦協定を締結し、事実上降伏した[18]。フランスでは、フィリップ・ペタン元帥が率いる親独のヴィシー政権が発足する[19](ナチス・ドイツによるフランス占領)。同政権は軍事的には中立を宣言し、同政権に帰属することになったヴィシー軍のフランス海軍も、枢軸陣営および連合国の双方に協力しない立場となった[20]。 この時点で、フランス艦隊の主力艦(ダンケルク級戦艦、プロヴァンス級戦艦、クールベ級戦艦)は健在であった[注釈 7]。 フランスの脱落により、連合国軍(イギリス海軍、フランス海軍)とイタリア海軍が睨み合っていた地中海戦域は[21]、新たな局面をむかえる(地中海攻防戦)。 イギリスはドイツがフランス艦隊を接収してドイツ海軍 (Kriegsmarine) が一挙に増強されることを憂慮した[6][22]。 6月28日、自由フランス軍に合流するためフランス本土を脱出したエミール・ミュズリェ提督がジブラルタルに到着し[注釈 8]、北大西洋部隊司令官(ジブラルタル駐留イギリス軍)のダドリー・ノース提督に出迎えられた。ミュズリェ提督はドゴール将軍の元に馳せ参じた最初のフランス海軍将官であり、自由フランス海軍 (Forces navales françaises libres、FNFL) を率いることになった。 直後の7月初旬、イギリス軍はカタパルト作戦を発動する。イギリス海軍の主力艦3隻(フッド、ヴァリアント、レゾリューション)と空母アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) を基幹とするH部隊(指揮官ジェームズ・サマヴィル提督)が7月3日から6日にかけてアルジェリアのオラン港(メルス・エル・ケビール)に停泊していたフランス艦隊に艦砲射撃と空襲を加えて大打撃を与え、仏戦艦ストラスブールが辛うじてトゥーロンに逃げ込んだ [23](メルセルケビール海戦、レバー作戦)[注釈 9]。 イギリス地中海艦隊の本拠地アレキサンドリア港では、フランス地中海艦隊が武装解除され、フランス戦艦ロレーヌ (cuirassé Lorraine) などが連合国に接収された[25]。イギリス本国のポーツマスに避難していたフランス戦艦2隻(クルーベ、パリ)も、接収された[26][27]。 仏領西アフリカのダカールでは、軽空母ハーミーズ (HMS Hermes, 95) と重巡2隻(オーストラリア、ドーセットシャー)が沖合で封鎖をおこなっていた[6]。ハーミーズから発進したソードフィッシュ艦上攻撃機(第814飛行隊)が空襲を敢行し、ダカールに停泊中の新鋭戦艦リシュリュー (cuirassé Richelieu) の艦尾に魚雷1本が命中して推進軸に損害を与えた[6][注釈 10]。だがハーミーズは味方の補助巡洋艦コルフ (HMS Corfu) と衝突し、修理を余儀なくされた。 一連のイギリスの攻撃により、フランスの反英感情が一挙に高まった[24]。ヴィシー政権は、イギリスと国交を断絶する[29](ヴィシー・フランスの外交関係)。 一方、前述のようにイギリスに亡命していたド・ゴール将軍は自由フランス政府と自由フランス軍を結成し(交戦団体)、ペタン元帥が率いるフランス本国のヴィシー政権と対立していた[15]。6月28日の発足時点における自由フランス軍の兵力は3,000人に過ぎなかったが、8月7日にイギリス=自由フランス間で協定が結ばれ、増強がはじまる[8]。最初に自由フランスに帰属することになったフランス海外領土(植民地)は、赤道アフリカのチャドやカメルーンなどであった[1]。つづいてド・ゴール将軍はセネガルの首都ダカールに食指をのばす[1]。 この頃、フランス国内の反英・親独に影響され、ドイツが仏領ダカールを潜水艦(Uボート)の基地として使用する動きがあった。これを警戒したイギリスは、ド・ゴール将軍のダカール攻略に協力することとした[注釈 11]。作戦方針は、まずド・ゴール将軍がピエール・ボワソン提督(ダカール総督)を説得し、それが失敗した場合は武力でダカールを占領しようとするものだった[6]。 ダカールでは、既述のように戦艦リシュリューが行動不能になっていたが[24]、フランス軍の士気は高かった。同地にはリシュリューの他に軽巡プリモゲ (Primauguet) 、駆逐艦ル・アルディ、潜水艦数隻、スループ6隻などの戦力があった。 戦闘前の動き上陸部隊(自由フランス軍歩兵2個大隊他)を乗せた輸送船6隻は自由フランス海軍のブーゲンヴィル級とエラン級スループ[注釈 12]3隻(サヴォルニアン・ド・ブラザ、コマンダン・デュボック、コマンダン・ドミネ)に護衛されリヴァプールを出港し、9月13日にイギリス艦隊と合流した。ダカール沖に到着したカニンガム提督が率いる艦艇は本国艦隊やH部隊などから抽出されており、戦艦バーラム (HMS Barham) 、レゾリューション (HMS Resolution) 、空母アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) 、重巡3隻(デヴォンシャ―、オーストラリア、カンバーランド)、護衛の駆逐艦部隊などであった[6]。 一方で、チャド植民地が自由フランス側についたことからヴィシー政権は植民地の支配維持のため9月9日に軽巡洋艦グロワール (Croiseur Gloire) 、モンカルム (Croiseur Montcalm) 、ジョルジュ・レイグ (Croiseur Georges Leygues) 、駆逐艦3隻(ル・マラン、ル・ファンタスク、ローダシュー)をトゥーロンから出撃させた。この艦隊は9月11日に妨害を受けることなくジブラルタル海峡を通過し、9月12日にカサブランカに到着した。 このフランス艦隊はメナス作戦実行にとって障害となるため、イギリス側はフランス艦隊とダカール到着を阻止しようとした。だが、それは失敗しフランス艦隊は無事ダカールに到着した。 9月18日、3隻のフランス巡洋艦はダカールを出航しガボンへ向かったが、英連邦重巡2隻に発見され追跡された。機関の故障で遅れたグロワールが豪州海軍重巡オーストラリアに捕捉され、カサブランカに送られた。残り2隻はダカールへ引き返した。 参加戦力→詳細は「ダカール沖海戦、両軍戦闘序列」を参照
連合国軍
ヴィシー・フランス軍戦闘経過9月23日ダカール沖に到着したイギリス艦隊はヴィシー・フランス軍に降伏を勧告し、拒否すればダカールに上陸作戦を行うと通告した[30]。空母アーク・ロイヤルの艦上機から投降勧告のビラをまくなど、攻撃を控えた。 続いて自由フランスのスループ3隻が港に近づき、軍使がボアソン中将に降伏を勧告した。ダカール側は降伏を拒否した[31]。 ダカールの防御拠点にはダントン級戦艦から陸揚げされた24センチ50口径砲が据えつけられており、これらの沿岸砲がイギリス艦隊に反撃した。 10時51分マニュエル砲台が砲撃を開始。イギリス艦隊も反撃して戦闘が始まった。ダカール陣営の潜水艦はメルセルケビール海戦の復讐に燃えており、修理を切り上げて出撃する[2]。まずフランス潜水艦ペルセが英巡洋艦に雷撃を試みたが、浅瀬のためすぐに発見されて対潜哨戒機と駆逐艦に撃沈された[2]。ダカール陣営の通報艦が救援に向かおうとしたが、砲撃されて引き返した[2]。イギリス側は重巡カンバーランド (HMS Cumberland, 57) 、駆逐艦イングルフィールド (HMS Inglefield, D02) 、フォアサイト (HMS Foresight, H68) が命中弾を受け中破した。この日、自由フランス軍はダカールに上陸できなかった。また、ダカール陣営もフランス駆逐艦ローダシュー (L'Audacieux) が連合軍船団攻撃を試みたが、英連邦重巡洋艦オーストラリアと駆逐艦フューリー (HMS Fury, H76) 、グレイハウンド (HMS Greyhound, H05) から捕捉攻撃され大破擱座した。 9月24日ダカールの工廠で突貫修理を終わらせたフランス潜水艦ベヴェジールが出撃した[32]。早朝、アーク・ロイヤルの艦上機が仏戦艦リシュリューを爆撃したが、対空砲火に阻まれて至近弾のみで命中弾はなく3機を対空砲火で失っただけであった。イギリス戦艦2隻がフランス戦艦リシュリューやマニュエル砲台への砲撃を開始し、フランス軍も応戦。10時10分、フランスの駆逐艦ル・アルディが煙幕を張ったため、イギリス艦隊は一時後退した。この頃、フランス潜水艦アジャクスは対潜哨戒機の爆雷を浴びながら英艦隊へ接近しようとしたが、イギリス駆逐艦フォーチュン (HMS Fortune, H70) の爆雷攻撃で沈没した[32]。潜水艦の乗組員はフォーチュンに救助された[32]。午後交戦が再開されたが、この日も自由フランス軍は上陸はできなかった。また蓄電池が切れたベヴェジールも英艦隊への攻撃を諦めてダカールに戻った[32]。ランスロット大尉(ベヴェジール艦長)とマルザン大佐(リシュリュー艦長)は英艦隊の航路を検討し、その予想ルート上で待ち伏せすることにした[33]。 9月25日ベヴェジールは英艦隊の予想針路上で待ち伏せするため、ダカールを出撃した[33]。ボアソン中将が街頭を疾駆しダカール防衛を呼びかける一方、アーク・ロイヤルの艦載機が攻撃を行い、続いて8時30分にイギリス戦艦が砲撃を開始した。英艦隊は、フランス軍沿岸砲台やリシュリューとの砲撃戦をおこなっており、フランス潜水艦を発見できなかった[33]。ベヴェジールが魚雷4本を発射し、英戦艦レゾリューションの左舷艦橋直下に魚雷1本が命中する[33]。R級戦艦は辛うじて沈没を免れ、フリータウンに引き揚げていった[34]。 戦闘が長引いたため、イギリス内閣はヴィシー・フランスとの全面戦争に発展しないように上陸作戦の中止を命じた。これにより結局上陸はなされず、ダカール攻略戦は連合国軍の撤退という形で終了した[35]。 その後ド・ゴール(自由フランス)、イギリスの戦略目標はいずれも達成されず、かえってヴィシー政権のイギリス不信を強めることになった[36][注釈 13]。 9月27日には日独伊三国同盟が締結され、枢軸陣営が成立したが[37]、ヴィシー・フランス(フランス海軍、アフリカのフランス植民地軍)は中立を維持した。 その2年後、連合国軍による北アフリカ上陸作戦(トーチ作戦)が始まる。トーチ作戦発動時、アメリカ軍はヴィシー政権に配慮してド・ゴール将軍の自由フランス軍を参加させなかったが、北アフリカのヴィシー・フランス軍は海軍総司令官ダルラン提督の指示で、軽微な抵抗を見せたのみで連合国軍と講和した。以後、リシュリュー以下のダカール在泊艦艇は自由フランス海軍に合流した[38]。 出典注
脚注
参考文献
関連文献
外部リンク関連項目 |