ティボー3世 (ブロワ伯)
ティボー3世(フランス語:Thibaud III, 1012年 - 1089年)は、ブロワ伯(在位:1037年 - 1089年)、モー伯およびトロワ伯(在位:1066年 - 1089年)。1044年にアンジュー伯ジョフロワ・マルテルに捕らえられ、自身の解放の引き換えにトゥレーヌ伯領をジョフロワ2世に譲った。また、シャンパーニュ伯領内での権力を増強させるため甥トロワ伯ウード3世のノルマン・コンクエストへの関与を利用した。 生涯ティボー3世はブロワ伯ウード2世とエルマンガルド・ドーヴェルニュの間に生まれた[1][2]。1037年に父ウード2世が死去し、ティボーはブロワ[1]、トゥール、シャルトル、シャトーダン、サンセール、シャンパーニュのシャトー=ティエリ、プロヴァンおよびサン=フロランタンを継承した。一方、弟エティエンヌ2世はモー、トロワおよびヴィトリ=ル=フランソワを継承した。1044年までに、アンジュー伯ジョフロワ・マルテルがトゥールを攻撃し、ティボーはトゥールを解放しようとした[3]。祖両者はヌイで衝突し、ティボーは捕らえられ、解放と引き換えにトゥレーヌ伯領を手放すこととなった[3]。これ以降、ブロワ家の拠点はシャンパーニュに移った。 1054年、ティボーはイヴォアでフランス王アンリ1世と会見を行った神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世に臣従の礼を取った[4]。ティボーは再び皇帝に近づくことができ、権力が増大し自身を宮中伯と呼ぶようになった[1]。 ティボーの甥トロワ伯ウード2世は、ウィリアム1世の軍に入り、イングランドのノルマン・コンクエストに参加した。ティボーはウードの留守を利用し、シャンパーニュにおける自身の権力の増強をはかった[1]。ティボーはヴァロワ伯ラウール4世の娘と結婚したことで、さらに強大な権力を得た。1074年以降、ティボーは息子エティエンヌ2世にブロワ、シャトーダンおよびシャルトルの管理を委ねた。 ティボーは1089年に死去し、フランス王フィリップ1世はブロワとシャンパーニュを分割してティボーの息子たちに継承させた[1]。 結婚と子女ティボーはメーヌ伯エルベール1世の娘ガルサンドと結婚し[2]、1男をもうけた。1048年に離婚し、ガルサンドはアルベルト・アッツォ2世・デステと再婚した[5]。 2度目にヴァロワ伯ラウル4世とアデライード・ド・バル=シュル=オーブの娘アデルと結婚し[6]、4子をもうけた。
脚注
参考文献
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