デウスト大学
デウスト大学(でうすとだいがく、スペイン語: Universidad de Deusto、バスク語: Deustuko Unibertsitatea)は、スペイン・バスク州にある大学。イエズス会によるカトリック大学である。メインキャンパスと本部はビスカヤ県ビルバオにあり、ギプスコア県サン・セバスティアンにもサブキャンパスを持つ。 歴史イエズス会によって、デウスト大学は1886年に開校した。巨大な建物は建築家のマルケスによって設計され、当時はビルバオ最大の建物だった。ビルバオのメインキャンパスは、ネルビオン川を挟んでビルバオ・グッゲンハイム美術館の対岸のデウスト区に立地している。大学名にもなっているデウスト区はビルバオの一地区だが、創立当時はビルバオから独立した基礎自治体だった。1916年に設立されたビジネスカレッジは、50年近くもスペインで唯一のそれであり、1973年に経済学・経営学部となった。 スペイン内戦と戦後1931年のスペイン第二共和政成立はデウスト大学に大きな影響を与えた。1932年1月23日、スペイン政府は政令でイエズス会の会社を解散させ、イエズス会が所有する大学は閉鎖された。いくつかの講義はビスカヤ文化学院で続けられ、経済学部の講義はスペイン内戦の勃発まで通常通り行われた。スペイン内戦中の大学は軍事基地となっていたが、1937年にビルバオが陥落すると、病院、食料供給センター、強制収容所として使用された。1940年10月に授業が再開された。 1938年から1974年までのフランシスコ・フランコ政権下の文官大臣の出身大学を見ると、72人中41人がマドリード大学、10人がデウスト大学、5人がバルセロナ大学、16人がその他であり、デウスト大学はスペイン屈指のエリート養成機関として、スペイン全土からブルジョワの子弟を集めた[1]。バスク祖国と自由(ETA)の前身であるEKINはデウスト大学が発祥の地であり、デウスト大学はバスク民族主義者たちの牙城だった[1]。 スペイン政府の公認1962年時点で、デウスト大学の名前はバスク州全域やスペイン全土で広く知られており、卒業生は実業界、政治界、文化界などで活躍していた。しかし、イエズス会が設置したカトリック大学であるデウスト大学での研究は公認されておらず、州立大学での学位認定試験を受験する必要があった。このため、社会的には大学として認知されていたが、公認を求める行動が行われた。1962年4月5日、スペイン政府とローマ法王庁はカトリック大学の法的地位を認めることで合意に達し、1963年8月10日、デウスト大学はローマ法王庁による公認を受けた。9月には法学部、哲学・芸術学専攻がスペイン政府に認可された。これ以降は学生数が急速に増加し、500人から1000人に、また5年後には1,000人から2,700人に増加した。10年後には5,000人となり、現在の学生数は14,000人に達している。1973年には経済学・経営学部が認可され、1979年にはコンピュータ科学部(現在の工学部)が認可された。デウスト大学はアリストス・キャンパス・ムンドゥス2015の一員である[2]。 サン・セバスティアン・キャンパスの建設サン・セバスティアン・キャンパスの起源は1956年まで遡る。当初は経営学、法学、経済社会学、工学の準備段階の講座が開設され、イエズス会が管理と運営を委託された。1960年にはこの組織がEUGと名付けられ、1963年にはEUTGの敷石として技術研究部門が置かれた。1979年、経済学・経営学部はUDに依存する学部となり、1990年にはサン・セバスティアン・キャンパスがデウスト大学にとって2番目のキャンパスとなった。今日のサン・セバスティアン・キャンパスには、経済学・経営学部、人文科学部、観光学専攻、社会労働学専攻が存在する。 開設学部
著名な関係者教員
卒業生
関連項目バスク地方(フランス領バスクを含む)には、デウスト大学のほかにバスク大学(公立)、モンドラゴン大学(私立)、ウダコ・エウスカル大学、ポー大学(公立)、スペイン国立通信教育大学(公立)、ナバーラ大学(私立)、ナバーラ州立大学(公立)が存在する。 脚注
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