ナポレオン諸法典ナポレオン諸法典 (ナポレオンしょほうてん、仏: Codes napoléoniens) またはナポレオン五法典 (ナポレオンごほうてん、仏: Cinq codes napoléoniens) は[注 1]、19世紀初期のフランスにおいてナポレオン・ボナパルト (ナポレオン1世) の主導で制定された主要な5つの法典をいう[2]。5法の内訳は刑法、民法、商法、刑事訴訟法、および民事訴訟法である[2]。世界で最初に制定された近代的な法典であった[要出典]。 日本では「六法」が主要な法典として存在するが、その語源はナポレオン五法典の5法に由来し、これに憲法を加えた呼称である[2]。 構成具体的には、以下の5つの法典をいう (制定年順)[2][3]。
制定の背景と略史ナポレオン1世がこれら5法典を制定した背景にはフランス革命 (1789年-) がある。フランス革命により絶対王政が崩壊し、国王や特権階級が法を濫用して市民を支配しない、近代的な市民社会制度が新たに必要とされた[6]。「近代自由主義国家の政治観を代表」[7]するとも言われるフランス人権宣言が1789年に出されると、この宣言内で謳われた法の原理を実現する具体的な法律が必要になった[8]。特に、フランス革命前のアンシャン・レジーム (旧体制) 下では、国王が反対勢力を不当に逮捕・拘留して刑罰権を濫用していたことから[6]、これを抑止するための刑法および刑事訴訟法が求められた[9]。加えて、私的自治の原則を具現化する民法、商法および民事訴訟法も、近代の基本法典として重要な位置づけを占めることとなった[9]。 ナポレオン1世は1800年8月13日、4名に民法の起草を命じており、1804年に2,281条からなる民法典が完成した[3]。治罪法典は1801年から作業着手し、1808年11月16日に公布されている[3]。 他国への影響日本では、1867年の大政奉還を経て明治政府が立ち上がった当初、外国の法典をそのまま翻訳輸入しようとした時期があった[10]。この方針の下、箕作麟祥がフランスの六法翻訳の実務を主導している[11]。翻訳作業の命を受けたのが1869年で、六法全ての翻訳を完了したのは5年後の1874年である[11]。特にフランス民法典は、19世紀半ばに主流をなしたフランス自然法論を体現していたことから、これを日本語に翻訳輸入することは理に適っていると捉えられていた[12]。 その後、明治政府はパリ大学で教鞭を執っていたフランスの法学者ギュスターヴ・エミール・ボアソナードを招聘し[13]、法典の起草を命じている[14]。ボアソナードが起草した対象は、フランス治罪法典に基づく日本の治罪法[5]や刑法、そして民法典にもおよんでいる[14]。 注釈出典
引用文献
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