ニッポン (航空機)ニッポン[2]は1939年の毎日新聞社による世界一周飛行に使用された飛行機。海軍から貸与された九六式陸上攻撃機を改装したものであった。 機体記号は「J-BACI」[3]。 飛行まで1937年(昭和12年)の東京朝日新聞による神風号の東京-ロンドン間長距離飛行に刺激された毎日新聞社(大阪毎日・東京日日)は、これに対抗して世界一周飛行を企画した[4]。毎日新聞は海軍航空本部教育部長の大西瀧治郎や海軍次官山本五十六らに協力を求め、現用機の貸与に対する軍令部の反対があったが、最終的に毎日新聞会長・社長が山本のもとに赴いて協力を要請して1938年末には九六陸攻の貸与が認められた[5]。 毎日新聞に貸与されたのはのちに二一型と呼ばれるものの製造番号328号の機体で、次のような改造が施された[6]。
改造された機は三菱双発輸送機と呼称された[1]。 1939年7月7日にその機体、ニッポンは毎日新聞に引き渡された[1]。 世界一周飛行ニッポンの乗員は以下の7名であった[1]。
羽田飛行場から出発の日の8月26日早朝、ニッポンを格納庫から出す際にプロペラが破損した[7]。同種の機体である大日本航空の大和のプロペラと交換されたが、このためニッポンは出発式開始から1時間ほど遅れて登場となった[7]。同日10時27分、ニッポンは羽田飛行場を離陸した[8]。13時5分、千歳飛行場に着陸[9]。翌27日、ニッポンは太平洋横断に出発した[9]。ニッポンはアメリカ合衆国各地を訪れたが、その間に第二次世界大戦が勃発し、予定されたいたフランスからイギリス、ドイツへの飛行が不可能となった[10]。 ニッポンは南米へ向かい、それからリオデジャネイロからナタールまで大西洋横断飛行を行った[11]。その後ダカール、カサブランカを経てスペイン、イタリアを訪問し、ギリシャ、イラク、インド、タイを経て10月20日に13時47分に東京に着いた[3]。 飛行ルート地名および国名は現在の名称
諸元(三菱式双発輸送機)出典:『日本航空機総集 三菱篇』 235,236頁。
その後ニッポンはいったん海軍に返還された後、毎日新聞が暁星という名前で再び使用したという[3]。終戦後、東京への飛行中に悪天候で所沢に着陸し、同地に放置された後、進駐軍によって破壊された[14]。 関連作品楽曲毎日新聞社は本機の飛行に際して壮行歌の歌詞を一般から募集しており、入選した歌詞を元にした楽曲は、1939年8月6日に「世界一周大飛行の歌」(作詞:掛川俊夫、作曲:橋本国彦)として発表された[15]。 記念碑ニッポンの世界一周飛行記念碑が東京国際空港の毎日新聞社格納庫前に現存する[4]。 切手2000年(平成12年)3月、郵政省は「20世紀デザイン切手」第8集で神風号とニッポン号をあしらった2枚組50円切手を発行した[16]。 参考文献
脚注
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