ノート:第二次上海事変
大山中尉殺害事件について大山中尉殺害事件に関する記述が偏った内容でしたので、とりあえずNPOV化しました。今後、この事件についての説明を書き加えていこうと思っています。--Kitchener 2005年12月1日 (木) 13:08 (UTC) 「事件後の対応」の8月9日部分は、洞富雄『南京事件』76-78を参考にしました。8月10日の部分は、『東京朝日新聞』昭和12年8月12日夕刊第1面の記事を参考にしました。--Kitchener 2006年5月4日 (木) 14:52 (UTC) 編集理由補足「支那空軍」という語がなし、でなくて、それを自称および正式名とした軍がなしということ。日本軍そういう呼称も使っていたが。--Los688 2006年7月14日 (金) 11:49 (UTC)
追加文草案表題 第二次上海事変(だいにじしゃんはいじへん)とは、1937年(昭和12)8月13日に中国国民党軍の日本上海租界への攻撃を発端とした戦闘である。 国民党軍の攻撃に対して日本軍は大規模反撃を行いこれを撃退し、中国全土に日華事変を波及させた。1932年(昭和7)1月28日に起きた上海事変に対してこう呼ぶ。 国民党軍80個師団に対して日本軍7個師団半は3ヶ月に渡って戦闘を行い、10月には浸透戦術によって国民党軍防衛線を突破。それ以後は国民党軍が総崩れになり、南京へ敗走する国民党軍を日本軍が平行追撃した。両軍の被害にはかなりの開きが見られ、日本軍の大勝と表現できる。
この戦闘の背景には、地政学的な支那(つまり万里の長城以南)に対する統一を守るために、日本を自発的な撤兵に追い込むという蒋介石の戦略があった。 この戦略をバックアップしたのがゼークトラインとファルケンハウゼンの攻撃計画である。1934年からドイツの中国国民党への投資が続いており、ドイツ製の軍需物資と、第一次世界大戦型の要塞線が上海の西方の非武装地帯に協定違反を犯して築かれた。 上海に駐留する日本軍を挑発して、この要塞線で出血を強いる事で、日本国内の対中干渉世論を転換させる事が蒋介石の戦略であった。
8月14日には上海疎開内の帝国海軍上海陸戦隊が国民党軍の攻撃にさらされる。しかし、この奇襲は国民党軍が砲を随伴しなかったもしくは保有しなかったため失敗に終わり、日本軍の反撃を招く。重火器の欠乏から18日には国民党軍は攻撃を停止する。 又、8月15日には上海派遣軍が編制され、松井岩根が指揮官となり、8月22日に帝国陸軍3個師団が上海北部沿岸に艦船砲撃の支援の下上陸作戦を行う。 その後9月上旬には上海陸戦隊本部前面から国民党軍を駆逐、10月10日、ゼークトラインの攻撃を開始、2日後には全面を突破した。10月26日に上海近郊の要衝大場(Dachang)が陥落、国民党上海攻囲軍は以後南京へ壊走を始めた。
10倍近い敵軍を壊走させた上海派遣軍は10月20日に編制された第10軍(柳川平助中将)とともにすかさず追撃に入った。又、平行追撃と同時に敗軍を包囲するために南京を包囲する構えを見せた。参謀本部は最初南京進撃を中止するよう下令したが、後現地軍の方針を採用し南京包囲を追認した。 ドイツ顧問ファルケンハウゼンは要塞線が突破された時点で南京から撤退すべきだと主張したが、蒋介石は南京市街での防衛戦にこだわった為に南京事件の発生に繋がった(第一次世界大戦の軍事的常識から言えば、市街の守備が不可能になった時点で軍は撤退し、市長が敵軍に降伏調印を行う。敵軍も市街攻略・防御には多大な犠牲が軍民に伴うためにこれを容認する。)。黄河の対岸に国崎支隊等が回りこむ前に撤退を指示すれば南京での国民党軍の損害は少なく抑えることが出来ただろう。
「中国人パイロットの未熟」について「中国軍パイロットの未熟から、爆弾の数発はフランス租界や国際共同租界に落ち」の部分のうち、「中国人パイロットの未熟」について「出典」を求められましたので、報告の上差戻しします。
なお、当時の日本側の記録にも、同様の見方が見られます。
信頼性の低そうな出典元ですね。こんなご存知とは思うのですがこんな出典もあるんです。知っていて取捨選択しているようにしかおもえないなあ。爆撃を日本軍の仕業にしたのがバレた後の苦しい言い訳と見るのが普通でしょう?結論が出るまで差し戻しはしないでくださいね。 支那軍が上海の外国人区域を爆撃・外国の干渉を誘発するために空爆した支那が世界から同情・第9章ジュネーブ・ブリュッセル会議を拒否した日本の立場・『シナ大陸の真相1931~1938』K・カール・カワカミ9 http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/14751885.html 支那軍が上海のホテルやデパートをわざと狙って爆撃して日本軍の仕業と逆宣伝・戦時下での虚偽・第12章 誹謗中傷運動・『シナ大陸の真相1931~1938』K・カール・カワカミ13 http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/15080822.html
私はこの点につき、昔、こんなコメントをしました。[3]
つまりこれは、当事者でもない第三者による、何の根拠も持たない「推定」でしかありません。そして私の知る限り、多数の外電も、日本での報道も、このカワカミ氏の見解を全面的に支持したものは見当たりません。 一方私が示したのは、まさしく中国軍パイロットを訓練した教官の認識です。そして今日では、どの歴史本を見ても「誤爆」説が完全に定着しています。どちらの方に信頼性があるのか、言うもまでもないでしょう。 ゆう(matunami) 2007年5月27日 (日) 08:30 (UTC)
あなたの言う通りだとすると、堂々と中国軍のマークをつけた爆撃機が、「16日間にわたり何度も」、なぜか「わざと」外国人居住地域を爆撃したわけですね。しかも技量の未熟なはずのパイロットが、なぜか「正確に」外国人居住地域に爆弾を落としている。 私が中国側だったら、そんな無茶苦茶な作戦、絶対にとりません。そんなことをしたら、国際世論が中国非難一色になるに決まっています。国際世論を味方につけたいはずの中国が、なぜそんな馬鹿なことをするのでしょうか? 資料を示したとおり、中国空軍のアメリカ人教官自身が、「未熟な中国人パイロットによる誤爆」に大ショックを受けていたわけです。 リンク先にも示しましたが、松本重治氏の目撃証言によれば、「15日」は、中国軍機は、「出雲」を襲おうとして逆に高射砲の反撃を受け、あわてて逃げ去る時に爆弾を投下、それが「惰性のためか、飛行機の進む方向」の市街地に落下したようです。この状況を見ると、単に「爆弾を落すタイミングを間違えた」と解釈して、特に問題になるとも思われません。 ところで、中国側が「日本軍の仕業」と発表した、とする情報源は何でしょうか? 私はそれを確認していませんが、もしそうだとしても、情報の混乱による「誤発表」でしょう。実際には中国側は、「併シ支那ハ直ニ遺憾ノ意ヲ表シ」ています(ニューヨークタイムズ)。 残りの3回については、私も情報を持ち合わせておりませんので、どんな状況であったのかよくわかりません。しかしいずれにしても、少なくともよく話題にのぼる最初の爆撃については、現在では単なる「誤爆」と見る見方が一般的なものでしょう。 >「14日、中国空軍は十数機で、上海に在泊中の第3艦隊に先制空爆を加えた。「出雲」などには被害はなかったが、誤爆のため、租界で外国人など約1000人が死傷した」(「一億人の昭和史」3 「日中戦争1」P114) >「翌一四日になると、中国空軍は黄浦江上の第三艦隊旗艦「出雲」をはじめ、付近の日本海軍艦船に対する爆撃を敢行した。ほとんど命中弾はなかったが、逸れた爆弾が共同租界南京路のホテルを直撃したり、フランス租界の歓楽センター「大世界」付近に落下爆発した」(太平洋戦争研究会編「日中戦争」P35) ゆう(matunami) 2007年5月28日 (月) 11:50 (UTC)
私はあなたを、「peace系」として投稿ブロック依頼に出しました。あなたのやるべきことは、「自分はpeace系ではない」と主張してCUを要求するとか、Nikeさんへの暴言やノート:ライタイハンでの合意に反した編集強行を謝罪するとか、何とか「ブロック」を回避する努力を行うことであると思います。 それとも、他にもソックパペットを用意しているので、このアカウントにはあまりこだわらない、ということでしょうか。まあ、他のアカウントが同じ記事で同じような主張を始めたら、すぐにそれとわかってしまうわけですが。 ゆう(matunami) 2007年5月28日 (月) 11:50 (UTC) いろいろ挙げている資料は「誤爆」の根拠が書かれていませんし、誤爆かどうかを考察したうえでの「誤爆説」ではありません。中国側の怪しい爆撃や狂言を猿でもわかるように整理してみます。Hhho 2007年5月29日 (火) 15:18 (UTC) 両者とも口汚く相手を罵るような発言ばかりして恥ずかしくないんですかね。しょせん、右翼(Hhho)と左翼(マツナミ)。秦郁彦みたいに事実に基づいた中立的なやつはいないのか。
ちょっと目に余ったので一言。 貴方と彼は対等です。書き込みをみても知識に差があるようにはみえませんが、 それ以前にユーザーに優劣はありません。 彼が始めて書き込みをしたのであれ、貴方がベテランであろうともです。 また貴方の実績、肩書きはこの第二次上海事変の内容を、書かれているもの以上に証明するものではありません。 そして実績があると自負しているなら、なおさら議論の推移を妨げるものですから慎むべきです。 第一印象によって、内容を見る目が変わってしまいます。 秦氏が中立ではないというのは、貴方とは真逆の意味で同意しますがね。--218.223.197.212 2008年11月30日 (日) 19:03 (UTC)
中国軍の爆撃と宣伝広報の整理国際租界爆撃について「支那ハ直ニ遺憾ノ意ヲ表シ」た後にも再び爆撃していることからもMatunamiさんのように単なる「誤爆」と断定するには無理があります。爆撃を日本軍が行ったと逆宣伝しているあたりも中国らしいですね。 8月13日 上海で戦闘が勃発するや否や、中国は国際租界と仏特権区域及び外国の船舶を爆撃し始めた。
中国軍の爆撃機が国際租界のパレスホテル及びキャセイホテルの近くに爆弾を投下した。この付近は極東でも最も有名な簡易宿泊街であり、百人以上が死んだ。 8月15日 中国軍の空爆で次の数の死傷者が出たと報じた。 仏特権区域 445,821 国際租界 495,600(概数)(仏特権区域で発行されている新聞の「上海ジャーナル」) 中国政府の宣伝広報局は、この爆撃は日本軍のものである、というニュースを流した。 「24時間以内にこの宣伝広報局は重大な訂正を発表し、我々特派員スタッフの完璧なる調査によって、問題の爆撃機は日本軍のものではなく中国軍のものであることが判明した、ということを内外に通告した。」(ワシントンポスト上海特派員マーク・J・ジンスボーグ氏)
中国軍は別の通りを爆撃し、数名の外国人と中国人を死亡させた。
「十四日ノ支那機ノ共同租界爆撃ニ依ル被害ハ、仮令故意テナイニシテモ明カニ支那側ノ責任テアル」 「併シ支那ハ直ニ遺憾ノ意ヲ表シ悧巧ニモ西洋諸国カ日本軍ヲシテ虹口ヲ根拠地トスルノヲ黙過シテ居ル以上租界ヲ爆撃スルノハ支那ノ権利タト云フ様ナ横車ハ押サナカツタ」(ニューヨーク・タイムス論説) 8月23日 中国軍機は再び国際租界を爆撃。上海最大の商業施設シンシアー及びウイン・オンデパートを直撃し、200人以上の死者と200人を負傷させた。ニューヨーク・タイムズの2人の特派員がこの負傷者の中に入っている。 中国の宣伝広報局はこの爆弾は日本軍機から投下されたものであると発表した。
8月27日 「上海の国際租界及び仏特権区域に居住する無力な一般市民を、中国軍が無責任に空爆したり殺害したりするのを防ぐために、武力手段または他の抑止策をとることについて何らかの国際的な合意が必要であるということは、上海在住の外国の領事館員や陸海軍スタッフ達の一致した見解となっている。」 「中国の検閲官は発信された外電やラジオ通信から前述の事実や意見を削除した。そして場合によっては外電のニュースそのものを変えてしまいさえもした。その目的は、現地の外国人達があたかも心の中で、この爆弾はおそらく日本軍の飛行機から投下されたものかもしれない、と疑っているかのように見せかけるためだったのである。だがしかしこれは明らかに真実ではない。」(ニューヨーク・タイムス上海特派員付の特電)
(黄埔上の米、英、仏の戦艦に精密機器を携えて乗船していた外国の陸海軍の観察者の証言) 「日本軍は上海の避難区域の上空に爆撃機を飛ばせたりしないという自らの誓いを堅く守っているのに対し、中国軍はそのような誓いを立てるのを拒んでいる。」
8月30日 中国の爆撃飛行隊が米の大型定期船プレジデント・フーバー号を爆撃。5人の水夫と2人の乗客を負傷させ、その中の1人が数日後に死亡。 「日本軍は文字通り中国軍によって軍事衝突に追い込まれているが、中国軍は外国人区域と外国権益をこの軍事衝突の中に巻き込もうとしているように思える。」(ニューヨーク・タイムズ特派員 8月30日付の上海特電)
「中国軍は、この爆弾は日本軍機から投下されたものである、と宣伝することによって責任を拒否した。しかしながら今や、これらの爆弾は両方とも中国が伊から購入したイタリア製のものであることが判明している、この判明した事実について、米英の現地の海軍調査官の意見は一致している。そしてイタリア当局もこの爆弾が自国製であることを認めている。これは決定的な証拠であるように思える。何故ならばイタリアは、日本がイタリアからそのような軍需物資を購入したことは一度も無い、と証言している。」(香港発信ニューヨーク・タイムズ特電)
「中国は上海の扇形戦区に戦闘を及ぼし、何等かの干渉或いは少なくとも中国の事件に対する重大な関心が外国で生じることを期待したのだ。」(ニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙上海特派員)Hhho 2007年5月29日 (火) 15:28 (UTC)
記事に関係のないことばかり書いても申訳ありませんので、ちょっとだけ。 「又、中国政府は爆撃は日本軍機によるものであるとも主張した」とありますが、中国側は、14日、30日については、明確に「誤爆」を認めています。(16日の事件は、事件の存在自体、確認できませんでした。「支那事変実記」には、同日の日本総領事館への空襲の記録はあるのですが・・・)。 23日については微妙なのですが(23日「南京放送」で「日本飛行機」のせいにしている記録は発見できました)、いずれにしても、この書き方では「中国政府はすべての爆撃を日本軍機のものであると主張した」ように誤認されかねないのでは、と思います。ちょっと修正の要があるように感じるのですが、いかがでしょうか。ゆう(matunami) 2007年6月7日 (木) 22:12 (UTC) ノートを見ていていつも思うんですがpeace系の人達ってどんな人なんでしょうね?ほとんど右派的な意見を主張していて最終的に左派的な人達(管理者含む)から多重アカウント疑惑でブロックされてる。あまりに毎回同じ繰り返しなんで自作自演じゃないかと思えてくるんですが…?peace系に限らず、wikiはこのパターンばかりですね。はっきり左派と右派で陣営別れしていて…。トピックごとに是々非々で議論を戦わせないもんでしょうか。このユーザーはどっちの系統の文面を書くかすぐわかっちゃうので、一般ユーザーからは中立的に思えないんでしょうね。 要出典に関して現在、「8月10日、上海のノルウェー総領事アールは、在上海各国領事に対し領事団会議を開催することを求めた。当初、日本総領事岡本は固辞したものの、再三の歓説により出席することになった。この会議で日本代表が事件の詳細を発表し、中国保安隊は国際租界とフランス特権区域に接する地域から一次的に撤退すべきであると提案した。」に要出典がかかっていますが、これについて、一次資料は手に入れられる環境に無いので、二次資料をかき集めてみました。 英語版より。「On August 12, representatives of the major powers convened and Japan demanded the powers enforce the withdrawal of Chinese troops from Shanghai, but mayor Yu Hung-chun protested that Japan had already violated the agreement through its invasion of China on July 7. The major powers did not wish to see another January 28 Incident, which greatly disrupted foreign economic activities in Shanghai.」抄訳、「8月12日、列強の領事は会議を開き、(会議において)日本は中国軍を上海から撤退させるために列強が団結するように要求した。しかし、喩連鈞市長は日本軍は既に盧溝橋事件で条約に違反していると反論した。列強は新たな第一次上海事変の発生を望んでいなかった。第一次上海事変により上海の外国資本の活動が大いに崩壊したからだ。」 livedoorWiki、第二次上海事変メモ[4]より。「▼協定違反を注意」の段落に当時の新聞発表で、8月11日にノルウェー総領事により会議が開催されたことが乗っています。 以上より、要出典のタグを削除したいと考えますが、いかがでしょうか。R-H 2007年6月7日 (木) 14:13 (UTC) 日本人被害CNN. Photos document brutality in Shanghai The photos, taken by a Swiss photographer near Shanghai in 1937, all depict the brutality of Chinese soldiers toward Japanese prisoners and Shanghai residents accused of helping the Japanese as they began their military conquest of China. --210.231.15.201 2008年8月2日 (土) 05:23 (UTC)
修正を提案します修正する事項は以下の通り 1.「見解」の根拠、出典を明確にする。 2.「ゼークトライン」に関する根拠、出典を明確にする。現在では、ドイツ人顧問団の提案した防衛戦は、高コストであるため採用されなかったという、中国側の防御施設構築責任者の証言があるので、「ゼークトライン」と呼ばれる防衛戦が実際に存在したか不明確であることを付記する。(「南京戦史」) 3.防御施設が「上海の西方の非武装地帯に上海停戦協定を違反して」作成されたとあるが、停戦協定が、事件解決後も効力を持つと主張したのは、日本のみで、中国、イギリス、アメリカ、フランス、イタリーは、停戦協定は、停戦が成立した時点で効力を失うとしていたことを追記する。(「外交官の一生」石射猪太郎) 4.「大山大尉事件」の記述が、詳細すぎる上、全体の半分近くを占めバランスが悪いので、これを、「第二次上海事変」から削り、別途、「大山大尉事件」の項目を建て、記述の大部分をそちらへ移し、「第二次上海事変」における「大山大尉事件」の記述の簡略化を図る。 5.第二次上海事変で、主に戦った陸軍の上海派遣軍の戦闘経過や、中国軍との激しい戦闘で、最終的に、5万近く損害を出したことを追記する。(戦史叢書 「支那事変における陸軍作戦1」) 6.「ゼークトライン」に10/10に攻撃をかけたという記述の根拠、出典を明確にする。 7.11/4の第10軍の杭州湾上陸と、それが中国軍撤退の原因になったことを追記する。(戦史叢書 「支那事変における陸軍作戦1」) 8.ファルケンハウゼンの発言の根拠、出典を明確にする。 9.国際情勢については、10/5のアメリカ、ルーズベルト大統領の「隔離演説」のような日本に不利な事項も追記する。 10.日本側の誤爆例、例えば、駐中イギリス大使ヒューゲッセンが乗った自動車を日本海軍機が銃撃した事件を追記する。(戦史叢書 支那事変における陸軍作戦1)
11.「督戦隊」の存在について、当時の日本の新聞以外の根拠、出典を記載する。また「中国の督戦隊は人の命を軽視する中国人の性格に基づく特異なもの」との説の根拠を明確にする。ソ連は、第二次世界大戦中、督戦隊を使用していたとされるし、一般的に、各国の憲兵は督戦隊的な機能を有することからみて、独自研究に該当する可能性を検討する。 12.参考文献の殆どが、当時の日本の新聞であり、正確性、中立性に欠けるので、参考文献を全面的に見直す。 13.「第二次上海事変の詳細を解説する主な人物」が、全て現代史の歴史学者ではないので、秦郁彦(日中戦争史)、大杉一雄(日中十五年戦争誌)、臼井勝美(新版日中戦争)等の、現代史の歴史学者とその学説を追記する。 14.「第一次世界大戦の軍事的常識から言えば、市街の守備が不可能になった時点で軍は撤退し、市長が敵軍に降伏交渉を行う」の根拠、出典を明確にする。 15.「1996年には上海事変時における中国人による日本人捕虜の虐待写真がCNNで紹介された。」については、信憑性に疑問があるので、掲載を再検討する。(http://homepage1.nifty.com/SENSHI/other/sonota2.htm)
16.「通州事件」は、日本の支配下にある傀儡政権の保安隊が起こした事件であり、当時の中国政府と何の関係もないこと、当時の日本政府は、その事実を隠蔽し、これを、暴支膺懲の宣伝に使ったこと、「通州事件」については傀儡政権の謝罪、賠償が行われ、解決していることを追記する。 17.「在上海日本国総領事館は2005年の反日デモから」、「2009年放送のNHKシリーズ『JAPANデビュー第1回 アジアの“一等国”』で」、「1927年の南京事件では」の3点はは、第二次上海事変と関係ないので、掲載の必要性を再検討する。
18.「河豚計画」については、検討止まりで、結局が実行されなかったことを追記する。また、当時の日本の国策としては、ユダヤ人を受け入れないことになっていたことを追記する。(「猶太人對策要項」1938年12月6日 五相会議決定)また、これは、第二次上海事変とは関係がないので、掲載の必要性を再検討する。 以上、18項目について、修正を提案します。 --プラスアルファ 2010年10月4日 (月) 17:23 (UTC)
分割提案:大山事件大山事件ないしは大山中尉惨殺事件の記事名で (より適切な表題があれば別のものでも可)新記事とすることを提案します。大山中尉の事件は、第二次上海事変の背景の一つにこの事件もありますが、満州事変と中村大尉事件がそれぞれ独立した記事であるように、これらも独立した記事としてもよいくらいの特筆性がありますし、本記事での関連部分は量的にも独立した記事にできる水準にあると思います。大山事件の冒頭から「時計などの貴重品が奪われたと日本の新聞は報じた。」というところまでを分割して、本記事では大山中尉の事件に加え、8月12日の上海の保安隊による全周包囲、大前旭憲兵軍曹、熊野敏通訳の行方不明事件やその間に行われた申し入れや折衝、8月13日の二個師団増派の決定に触れてから、13日夜の八字橋につなげるのが自然ではないかと思います。ご検討ください。Takabeg(会話) 2014年9月21日 (日) 08:48 (UTC) 分割提案:中国空軍の上海爆撃 (1937年)国民党軍機による上海空爆の部分を、中国空軍の上海爆撃 (1937年)の記事名で (より適切な表題があれば別のものでも可です)新記事とすることを提案します。本記事での関連部分は量的にも独立した記事にできる水準にあるうえ、少し上の方の時系列的な説明の部分でも触れられているので、独立した記事にできると考えます。表題についてですが、国共内戦期にも上海爆撃が行われているので「1937年」をつけてみました。また、1937年に日本海軍機による上海爆撃も行われているので「中国空軍の」をつけてみました。上の方のコメントで「誤爆」であるとの主張がありますが、盲爆、無差別爆撃などと言及するものもあること、諸説あるばあい断定的な記事名にしてしまうとウィキペディアの中立性に反してしまうこと、誤爆だとしても爆撃であることにかわらないことから、表題に「誤爆」や「誤爆事件」の単語を入れるのは問題だと考えます。ご検討ください。Takabeg(会話) 2014年9月21日 (日) 09:48 (UTC) 淞沪会战:奇袭日军旗舰“出云号”始末@利用者:遼東半島さん、この編集について相談があるのですが、新華網の記事には副隊長孫桐崗(記事内では「孙桐岗」)の名前はあっても隊長張廷孟の名前はないですよね。「何でかな」と思って調べている途中で (まだ途中です)ふと思ったのですが、もしかすると、遼東半島さんは、この部分を書かれる際に中山雅洋さんの『中国的天空』も援用されたのではないでしょうか?中山さんの著書には「第三五大隊の許思恩」と書かれています。しかし、空軍總部政治作戰部から出版された『空軍建軍史話』を覗き見すると、公大を爆撃した人物の名前が許思恩ではなく「許思廉隊長」となっています。許思廉が率いていたのは第三十五隊 (つまり第三十五中隊)です。中山さんは劉毅夫さんの『空軍史話』を参考文献としてあげられていますが、『空軍建軍史話』はあげていません。『空軍史話』で該当箇所を見つけられなかったので断定はできませんが、もしかすると、中山さんは『空軍建軍史話』から引用しながら参考文献にあげなかった可能性もありそうです。お時間があるときにご検討いただければ幸いです。Takabeg(会話) 2014年9月27日 (土) 09:35 (UTC)
見解1&見解2ー>{{Cleanup}}この編集が原因のようですが、見解1&見解2という部分がこの記事を読みにくくしていると思います。「見解」に関わらず変わらないであろう「情報」のメインストリームの部分が混ざっていいます。特に見解2がひどくて、この事変の開始にあたる「8月13日の中国軍による商務印書館付近の日本軍陣地への射撃」までも入り込んでしまっています。そもそも「当時の状況を総括した見解」という形で説明する必要はなく、動かない情報は見解1&見解2などに分けることなく記述して、論争が起きているような「見解」は、例えば「中国による攻撃の動機」などとしてまとめるべきです。何度も何度も盧溝橋事件が出てくるのはうざったいですし、 阿羅健一『日中戦争はドイツが仕組んだ』を使いすぎのような気がします。しかもページ番号がない。以上の理由から、{{Cleanup}}をつけておきます。Takabeg(会話) 2015年6月16日 (火) 20:54 (UTC) 『シブミ』『渡部昇一の昭和史』にある (『日本人の本能: 歴史の「刷り込み」について』にもほぼ同じ記述があります)のは、トレヴェニアンの『シブミ』にある、主人公ニコライ・ヘルの上海時代の回想の引用です (『シブミ』〈上〉 ハヤカワ文庫NV、106頁)。渡部氏は「この記述は小説でありながら、史実的に極めて正確であると小堀桂一郎氏は考証しておられる」と書いています。とはいえ、『シブミ』は小説ですから、この記事で『渡部昇一の昭和史』をソースとして提示する必要はないと思います。ちなみに、『シブミ』には8月23日の中国空軍による先施公司(シンシア・デパート)への爆撃も扱っています (同書、108頁)。「事変を描写している文学作品」として『シブミ』を取り上げるのは、それほど問題ではないとは思います。Takabeg(会話) 2015年6月19日 (金) 03:03 (UTC) 「血の土曜日」タイトル「血の土曜日」セクションは国民党軍による空爆について書かれています。英語のBloody Saturdayではこの国民党軍による空爆と、日本軍の空爆を象徴する上海南駅の赤ん坊写真の両方を指すようです。したがって「血の土曜日」タイトルは誤解を招くもので不適切なのでセクションタイトルは「国民党軍による空爆」への変更を提案します。--さんぽーる(会話) 2015年12月24日 (木) 16:08 (UTC)
第六駆逐隊の行動について『日本陸軍部隊の上陸』の項の中で「支援艦隊の中には、第六駆逐隊司令官として伏見宮博義王中佐も加わっていた。」とありますが、8月23日の時点では博義王中佐は第三駆逐隊司令です(第六駆逐隊司令となるのは同年11月15日)。また名前についても彼は伏見宮家を継承していないため、第六駆逐隊司令に補職された際の海軍公報にもある通り、伏見宮の家名は冠せず「博義王」という表記が正しいものとなります。この部分について削除を含めた検討をお願い致します。2400:4030:9FAB:8400:9817:C521:7A0B:D421 2017年4月4日 (火) 14:56 (UTC) おかしな編集 (複数)221.45.66.150さんによる連続“投稿“ですが、どうも 信頼できる情報源を提示しているわけでもなく、個人的な感想に基づく印象操作だと思います。まず、「宮崎水兵事件、大山事件に端を発する、」というのは、そう言っている人もいるというだけで、確定しているわけではありません。米内光政は大山事件を「事故」といってスルーしています。「上海戦(シャンハイせん)とも」以下を除去したのは理解不能です。「上海戦」という呼称ですが、左寄りの人も右寄りの人もどちらでもない人も普通に使用していますので、もしも既存の典拠だけで心配ならば、ご自身で出典の追加をするか、もしくはノートで議論を開始するのがよいでしょう。「上海」と「進駐」という言葉の組み合わせがどういう歴史的事件で使用されているのか調べてみますと、まず、「上海租界進駐」といえば、1941年12月に日本軍が共同租界に進駐したこと、「上海租界接収」ともいいます。それと、「上海進駐」といえば、1949 年5月25日に中共軍が進駐したこと、こちらは「上海解放」ともいいます。1938年8月の事変に関して「進駐」が使われているのには余りお目にかからなかったのですが、李君山《為政略殉─論抗戰初期京滬地區作戰》(臺北:臺大出版社,1992)で使用されているのを見つけました。同書の29頁から「八、國軍進駐上海」という章が始まります、それ以前の頁にも、8頁に「國軍進駐淞滬」、25頁に「國軍進駐市區」とあり、すべて非武装地区への「進駐」という意味で使用されています。この「進駐」は8月11日夜半から12日にかけて行われています。したがって、本記事の冒頭の第二次上海事変の定義分で「進駐」という言葉を使用すると一般に8月13日に始まったとされるこの事変が8月12日には始まっていたことになってしまいますので、独自研究かつ歴史捏造ということです。また、宮崎水兵事件に関する記述ですが、『大公報』には似た記事は出ていますが、「北四川路の遊廓」って書いてありましたっけ? 結局、その後の文章も含めて利用者の作文になってしまっています。気持ちはわからなくもないのですが、出典は明示すべきです。というわけで、差し戻します。ただ、私も、阿羅氏の著書だけで執筆しちゃうのはどうなのかなぁと思ってはおります。時間があったら直します。Takabeg(会話) 2019年3月31日 (日) 11:14 (UTC) 李玉利用者:遼東半島さん、お久しぶりです。元気にしてますか? 特別:差分/70648783について質問があります。『重探抗戰史(一):從抗日大戰略的形成到武漢會戰(1931-1938)』の314頁、第八章 重探八一三滬會戰という章には、確かに「8月13日上午9點15分許,一小隊日本海軍特別陸戰隊員,在天通庵車站以南越過淞滬鐵路,進入寶山路,向西寶興路附近的上海保安總團陣地進犯,中國軍隊奮起還擊。這次對射僅約 20 分鐘,雙方很快停火。」とあります。残念ながら、著者は出典を提示していません。一方、陳祖恩「日中戦争期における上海日本人学校」『戦時上海: 1937-45年』の 279頁に掲載されている『申報』1937年8月14日、『史料匯編』(上) 116頁の内容は、「八月一三日午前九時一五分、日本海軍陸戦隊約七〇〜八〇人が、「北四川路日本小学校から繰り出す。全員が武装し、虬江路口の横浜橋から軽機関銃で我が軍陣地に向けて掃射し、淞滬鉄路を越えようと図って宝山路へ直進突撃する。我が防衛陣地の警察と保安隊は猛烈に反撃し、ほぼ十五分を過ぎたころ、日本軍は支えきれずに退却した。」というものです。これは、楊天石の『找尋真實的蔣介石』の227頁にある「張治中原定於十三日拂曉前開始攻摰,但蔣介石因英、美、法、意四國駐華使節等方面正在調停,要張「等候命令,並須避免小部隊之衝突」。同日上午九時十五分,日本陸戰隊水兵衝出租界,射擊守衛横浜路東寶興路段的中國保安隊,中國軍隊還擊。」ともある程度整合性がとれます。出典も同じです。『申報』の報道では、陣地に掃射はしていますが、侵入はしていません。『申報』の報道は、日支両軍のどちらが先にお漏らししたのかという点ではの見解の相違がありますが、大まかな展開では日本の記録や報道とも大きな齟齬はありません。東京裁判ではコミンズ・カーがWhat I am suggesting to you is this: That nobody will ever know who fired the first shot, but the bringing up of huge reinforcements made an out break inevitable. (私の申し上げておることは、誰が第一發を射つたかということは誰も知らない。永久にわからないだろうが、大きな軍隊を動かすということは、結局において事件を起すということであります。) と言っています。ただ、この段階で大きな軍隊を動かしていたのは中国側でしたから、モニターの方がわざわざ「ちょっと訂正いたします。私の言つておることは、この最初の一發が誰が射つたかということは、永久にわからないであろうが、とにかく日本がこのために増援軍をもち出してきたということは、結局事件の勃發の原因になつたのではないかということであります。(極東國際軍事裁判速記録 全一〇巻 第五巻 自第一九四號至第二三八號、雄松堂書店、昭和四十三年一月二十五日発行、二〇九號 昭和二十二年五月二日 (金曜日)」と補足説明をせざるを得なかったのが、ちょっと笑えるところです。結論から申し上げますと、「上海保安總團陣地進犯」 (利用者:遼東半島さんの訳だと「保安総団陣地に侵入」)、は李玉による作話なんじゃないんでしょうか?Takabeg(会話) 2019年3月31日 (日) 12:08 (UTC)
|