ハッラーンの廃墟
伝統的な泥レンガの家(ビーハイヴ beehive)、トルコのハッラーン付近の村
ハッラーン (ハラン 、Harran)、別名カルラエ (Carrhae)は、古代シリア地方 の北部にあった都市の名で、現在はトルコ 南東部のシャンルウルファ県 にあたる。
概要
古代メソポタミア 北部およびシリア北部の商業・文化・政治・宗教の中心都市であった場所で、現在は非常に貴重な考古遺跡 となっている。
また大プリニウス によればハランの特産品は Stobrum の木から採れる香りのよい粘液(サンダラック樹脂)であったとされる(博物誌 xii. 40)。ハランの街はメソポタミア神話の月の神シン の祭儀の中心であり、バビロニア 時代のみならず古代ローマ 時代までその崇拝は続いた。
ハランはローマ時代には「カルラエ」と呼ばれたが、その遺跡はこの地方に今も残る。ハッラーンの街はローマ時代からサービア教徒 の時代、イスラム教 や十字軍 の時代まで存続し、イスラム世界の学問の中心としても栄えたが、モンゴル帝国 の襲来で廃墟と化し、以後再建されることはなかった。その遺跡はT.E.ロレンス が調査し、イギリスとトルコによる共同発掘調査が1951年から1956年まで続いた。
歴史
古代のハラン
古代オリエント・シリア地方 の地図
ハッラーンはトルコとシリアの国境に近く、古代にはエデッサの名で知られたシャンルウルファ (ウルファ)の街から南東へ44kmほどの位置にある。シャンルウルファからハッラーンまでの道は、トルコ南東部の農業の中心である灼熱のハッラーン平原をまっすぐ伸びている。
古代メソポタミア文明の都市としての最盛期には、ハランは南のダマスカス からの道と、ニネヴェ とカルケミシュ を結ぶ道が交わる地点にあり、古代オリエントにおいては戦略的に非常に重要な地であった。なおかつ、ハランやエデッサはユーフラテス川 やその支流バリフ川 の上流の平原にあり、土壌は肥沃で雨量もメソポタミア南部より多く、農耕 が早くから行われた地であった。
旧約聖書 創世記 12章にはエホバ からカナン の地へ行くよう命じられたイスラエルの始祖アブラム (後のアブラハム )がしばらく住み着き、彼の父テラ はここで死んだがその後アブラハムの一家はハランを出立してカナンに向かった。このことから正しい信仰まで半道を進みながら途中でとどまる信者を「ハラン信者」と呼ぶことがある。 [誰によって? ] [要出典 ]
アッシリア の粘土板 文書において、ハランは「ハラヌ 」(Harranu、アッカド語 で道路・通り道・旅を意味する「harrānu」より)の名で、紀元前1100年 ごろのティグラト・ピレセル1世 の時代以来頻繁に現れている。ヒッタイト のシュッピルリウマ1世 は、ハラン付近を支配していたフルリ人 のミタンニ王国 を破り、ミタンニの王にシャッティワザ を擁立して条約を交わしたが、シュッピルリウマ1世の息子でカルケミシュの副王ピヤシリはミタンニ征服の途上でハランを焼き払った。
ハランは紀元前763年にも略奪されたが、新アッシリア の帝王サルゴン2世 により復興された。
紀元前612年にアッシリアのシン・シャル・イシュクン は、新バビロニア とメディア に敗れて首都ニネヴェが奪われ(ニネヴェの戦い )、アッシリアの亡命政権の首都はハランに移された。紀元前608年にアッシリアはハランでも敗れ、滅亡した(ハッラーン陥落 (英語版 ) )。紀元前605年にアッシリアと同盟を結んでいた、古代エジプト のネコ2世 が新バビロニアと戦った(カルケミシュの戦い [ 1] )。
ハランにあり古くからの崇敬を集めていた月神シン の神殿は、新アッシリアのアッシュールバニパル や新バビロニアのナボニドゥス などにより何度も再建された。ローマ時代のシリアの歴史家ヘロディアヌス (紀元170年 - 紀元240年 頃)もハランにあった月の神殿について言及している。
ユダ王国 のヒゼキヤ 王と同じ時代、ハランはアッシリアに対し反乱を起こし、アッシリアに再征服される[ 2] 。ハランに与えられていた特権の多くは奪われたが、サルゴン2世 が後に回復した。
メディア、ペルシャ、ギリシャ、ローマ
新アッシリアが崩壊に向かう最中、ハランはその最後の王アッシュール・ウバリト2世 の本拠となったが、紀元前609年に新バビロニアの王ナボポラッサル の軍勢に包囲され征服された。その後はハランはメディア王国 の一部となり、さらにアケメネス朝 ペルシャ が引き継いだ。その支配は紀元前331年、マケドニア王国 のアレクサンドロス大王 の軍勢による征服と入城まで続いた。
紀元前323年6月11日にアレクサンドロスが没すると、ハランはその後継者たち(ディアドコイ )の争奪に巻き込まれる。ペルディッカス 、アンティゴノス 、カルディアのエウメネス らがハランを相次ぎ支配したが、最終的にはセレウコス1世ニカトール の支配下になりセレウコス朝 のオスロエネ地方 (英語版 ) (旧名のウルハイ Urhai からギリシャ語 化された)の首都となった。その後1世紀半にわたりハランは繁栄を謳歌した。
オスロエネ王国
パルティア がバビロニア地方を征服した頃には独立状態になった。ハランやエデッサはペルシャのパルティアとシリアのセレウコス朝との緩衝国となり、アラブ人 のアブガル朝 (英語版 ) )がパルティアのシャー の臣下となってオスロエネ王国 (英語版 ) (紀元前132年 - 244年 )を3世紀以上にわたり治めた。
ハランは、ローマにはラテン語で「カルラエ」(Carrhae)の名で知られていた。ローマ共和国 とパルティア の間で行われたカルラエの戦い (紀元前53年 )の古戦場でもある。この戦いではスレナス に率いられたパルティア軍がクラッスス 率いるローマ軍を大敗させ、クラッススは捕まり殺されている。217年 、カラカラ 帝はエデッサ からパルティア との戦いに赴く途上、この付近で近衛軍団長マクリヌス に殺された。ガレリウス 帝は296年 、パルティアを滅ぼしたサーサーン朝 の軍勢にこの付近で敗北している。
ハランはオスロエネ王国のもとで非常に早い時期からキリスト教 を受容しその中心地のひとつとなった。最初から教会 にする目的で公開的に建設された最初の教会堂 もハランにあった。ハランには司教も住んでいたが、ハラン市民の大部分は古代からの月神や星辰への信仰を続けた。
ローマ帝国
オスロエネ王国はローマの属国となり半独立を維持したが244年 にローマ帝国に吸収された。
サーサーン朝
ハランの地は勃興するサーサーン朝に飲み込まれその支配下にあった。
イスラム時代のハッラーン
651年 にアラブ人がサーサーン朝を滅ぼしイスラム帝国 を打ち立てた。イスラム教の時代の初期、ハッラーン(ハラン)やアル=ルファ(エデッサ)、アル=ラッカー などを主要都市とする北メソポタミア(ジャズィーラ地方 )西部にはアラブ人のうちムダル部族が住み、ディヤルムダル(Diyar Mudar)と呼ばれるようになる。
ウマイヤ朝 の最後のカリフ ・マルワーン2世 の時代にはハッラーンはスペイン から中央アジア までの大帝国を治めるカリフの座所となった。
サービア教徒のハラン
月神や星辰を崇拝していた人々は9世紀以後、アッバース朝 の支配下で啓典の民 の一つ「サービア教徒 」を名乗り、ハッラーンを中心に独自の信仰を育んでゆく。ハッラーンの住民が「サービア教徒」を名乗るきっかけとして、830年 の出来事が挙げられる。この年、アッバース朝 のカリフ・アル=マアムーン が東ローマ帝国 への遠征の途中にハッラーンを通過したが、ハッラーンの住民が異教を信じていることに驚き、ユダヤ教 ・キリスト教 ・イスラム教 など同じ啓典 を信じる「啓典の民 」への改宗を命じた。ハッラーンの住民はアッバース朝支配下で生きるため、クルアーン に言及される啓典の民の一つであるサービア教徒であると自称した。イラク南部にあったグノーシス主義 のサービア教は当時すでに衰退しておりその実態はほとんど知られていなかったことが好都合な点であった。ハッラーンの自称サービア教徒と、クルアーンに言及されたサービア教徒との関係は、以後論争の的となる。
8世紀 末から9世紀 にかけ、ハッラーンでは古代ギリシャ語 の天文学 ・哲学 ・自然科学 ・医学 の文献をアッシリア人 がシリア語 に訳し、さらにアラビア語 に翻訳していた。バグダード が翻訳および学問の中心となるまでの間、ハッラーンが古代地中海世界の知識をアラブ世界へと導入する学問の中心地となった。自然科学や医学における重要な学者がハッラーン出身の非アラブ人・非ムスリムの人々(サービア教徒やアッシリア人など)から多く輩出されたが、重要な化学者であるジャービル・イブン=ハイヤーン (ゲーベル)がハッラーンで学んだという説もある[ 3] 。
1032年 または1033年 、農村部の餓えたシーア派 住民や都市部の貧民によるムスリム民兵組織が蜂起して大都市ハッラーンを襲い、サービア教の神殿やサービア教徒のコミュニティを破壊し、以後サービア教徒は離散し消滅した。1059年 から1060年 にかけ、神殿は西ジャズィーラ(ディヤルムダル)地方で勢力を増していたアラブ人王朝(Numayrids)により要塞化された王宮として再建され、ザンギー朝 のヌールッディーン はこれを強固な要塞へと変えた。
十字軍の襲来
11世紀末には十字軍 が中東に襲来した。ハッラーンを制圧した十字軍(エデッサ伯国 のボードゥアン2世とジョスラン1世)とムスリム勢力(モースル のジェケルミシュやマルディン のソクマンなどセルジューク朝 系の領主たち)の間で、1104年 5月7日 に「ハッラーンの戦い 」と呼ばれる決戦がバリフ川 の谷間において起きた。この戦いは、アルメニア人の年代記作者エデッサのマチュー (英語版 ) によればこの戦場はハッラーンから2日かかる場所であったとされる。アーヘンのアルベルト (英語版 ) や、シャルトルのフーシェ (英語版 ) といった年代記作者たちはバリフ川とユーフラテス川が合流するラッカ の対岸にある平野としている。この戦いで、十字軍側は敗れエデッサ伯ボードゥアン2世 はセルジューク朝の兵士の捕虜となった(釈放された後はエルサレム王国 の国王となった)。
アイユーブ朝
アイユーブ朝 時代のハッラーン大学の廃墟
12世紀 の終わり頃、ハッラーンとラッカはともにアイユーブ朝 の王子たちが置かれた。アイユーブ朝のジャズィーラ地方の支配者だったアル=アーディル はハッラーンの城塞を強化した。
モンゴルの襲来
しかし1250年代 に入り、モンゴル帝国 の襲来(フレグの西征 )でジャズィーラの諸都市はことごとく破壊された。大都市だったハッラーンも完全に破壊され、以後再建されることなく放棄され現在に至っている。スンニ派 のハンバル学派 の高名な学者イブン・タイミーヤ の父はハッラーンからの難民でダマスカスに移住していた。13世紀 のアラブの歴史家アブ・アル=フィダ (アブー・アル=ファイド、1331年没)はハッラーンを廃墟と記している。
現在のハッラーン
ハッラーンのビーハイヴ・ハウス
現在のハッラーン地方は、日干しレンガ で造られ木材を一切使わない、伝統的なドーム屋根の「ビーハイブ・ハウス」(蜂の巣箱 状住宅)で有名である。この形状は中が涼しく、灼熱のこの地でも快適に過ごせるようになっており、この3000年以上基本的な設計は変わっていないとみられる。1980年代 までは一般の居住用にも使われていたが、現在残っているこの型の住宅は観光客のための展示用であり、ハッラーンの住民のほとんどは遺跡から2km離れた新しい村に移っている。
現在は遺跡となっている古代都市ハッラーンでは、市の城壁や要塞が今も形をとどめており、市の城門のうちの一つは今も建っている。また中世に栄えた大学は、アイユーブ朝時代の建築の一部が残っている。近傍にある紀元前4世紀の墳墓も発掘がすすめられている。
ハッラーンの新しい村はトルコの中でも貧困な地方にある寒村で、ハッラーン平原での生活は夏の高温のため過酷である。住民の多くはアラブ系で、伝統的な様式に従い暮らしており、遺跡の観光客に近寄って商売やガイドなども行っている。この地のアラブ人は、18世紀 にオスマン帝国 により移住させられてやってきたとされている。
ハッラーン平原を流れていたバリフ川水系の支流群が1980年代末に涸れて以降、平原の多くの個所で農耕が放棄された。しかしトルコ政府がチグリス・ユーフラテス上流で計画する灌漑計画「南東アナトリア計画 (英語版 ) 」により灌漑工事が行われ、再度緑を取り戻しつつある。綿花 やコメ の栽培も再開されている。
旧約聖書のハラン
ハランは旧約聖書 で、アブラハム がカナン の地に移る前に住んだ場所ともされている。地中海 沿いにある都市国家ティール の交易相手の中には、シリア やパレスチナ の諸都市とともにハランの名も見られる(エゼキエル書 27章23節)。
創世記 11章31節、12章4-5節では、テラ が息子アブラハム 、孫のロト (ハラン (英語版 ) の息子)、アブラハムの妻サライ とともに、カルデア のウル からカナン の地に向かう途中にハラン(Haran、Harran、Charan、Charran ; ヘブライ語 では חָרָן)に至り、そこにとどまった。テラはハランで没し、アブラハムは75歳の時にハランを出てカナンに向かった。学者たちは聖書のハランを現在のハッラーンと同定している。同じく創世記27章43節では、ハランにはラバン が住み、その妹リベカ はイサク と結婚した。後に、イサクの双子の息子エサウ とヤコブ は対立し、ヤコブはカナンを出てハランに住むラバンのもとへ逃げ、ラバンのところで働き20年を過ごす(創世記31章38-41節)。
テラの息子でロトの父ハラン (英語版 ) は地名のハランと間違われやすいが、両者はヘブライ語での綴りが違う(הָרָן)。イスラム教では、人名のハーラーン(ハラン )は地名のハッラーンと結び付けられている。
脚注
参考文献
Chwolsohn, Daniil Abramovic, Die Ssabier und der Ssabismus , 2 vols. St. Petersburg, 1856. [Still a valuable reference and collection of sources]
Green, Tamara, The City of the Moon God: Religious Traditions of Harran . Leiden, 1992.
Heidemann, Stefan, Die Renaissance der Städte in Nordsyrien und Nordmesopotamien: Städtische Entwicklung und wirtschaftliche Bedingungen in ar-Raqqa und Harran von der beduinischen Vorherrschaft bis zu den Seldschuken (Islamic History and Civilization. Studies and Texts 40). Leiden, 2002 .
Rice, David Storm, "Medieval Harran. Studies on Its Topography and Monuments I", Anatolian Studies 2, 1952, pp. 36-84.
外部リンク
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