ハンマーヘッド (USS Hammerhead , SS-364 ) は、アメリカ海軍 の潜水艦 。ガトー級潜水艦 の一隻。艦名はシュモクザメ に因む。なお、退役から14年後にスタージョン級原子力潜水艦 15番艦として2代目「ハンマーヘッド (SSN-663) 」が就役している。
シロシュモクザメ(Smooth hammerhead )
アカシュモクザメ(Scalloped hammerhead )
艦歴
1943年5月5日にウィスコンシン州 マニトワック のマニトワック造船 で起工する。1943年10月24日にR・W・ベリー夫人によって命名・進水し、艦長ジョン・C・マーチン少佐(アナポリス 1934年組)の指揮下で1944年3月1日に就役する。ミシガン湖 での一か月の訓練後、浮きドック ごとミシシッピ川 をニューオーリンズ まで曳航され、1944年4月8日に到着した。「ハンマーヘッド」はパナマ運河地帯 のバルボア で訓練を行い、その後ハワイ の真珠湾 に向かった。
第1の哨戒 1944年6月 - 8月
6月6日、「ハンマーヘッド」は最初の哨戒で「スティールヘッド (USS Steelhead, SS-280 ) 」および「パーチー (USS Parche, SS-384 ) 」とウルフパック を構成し台湾 およびルソン海峡 方面に向かった。日付が7月9日になってすぐ、「ハンマーヘッド」は北緯19度13分 東経120度41分 / 北緯19.217度 東経120.683度 / 19.217; 120.683 の地点で80トン級サンパン を発見し、4インチ砲と20ミリ機銃で撃沈。哨戒海域に到着後、7月29日朝には北緯21度18分 東経121度10分 / 北緯21.300度 東経121.167度 / 21.300; 121.167 の地点で900トン級小型タンカーを発見し、ジグザグ航行を行っている目標に対して魚雷を3本発射したが命中しなかった。翌7月30日早朝には輸送船団と思われる複数の目標を探知し、やがて雨の中から船影を発見して北緯20度52分 東経120度47分 / 北緯20.867度 東経120.783度 / 20.867; 120.783 の地点で魚雷を6本発射、反転してさらに魚雷を4本発射する。魚雷は4本が「関西丸級輸送船 」に命中して目標を撃沈し、ほかに6,200トン級輸送船2隻を撃破したと判定された。3つの魚雷爆発音がとどろいたあと、攻撃を「スティールヘッド」と「パーチー」に任せて再度の攻撃の準備に入ったが、2隻の「千鳥型水雷艇 」の存在により攻撃に踏み出せず、やがて敵影は去って行った。8月17日、65日間の行動を終えてフリーマントル に帰投した。
第2の哨戒 1944年9月 - 11月
9月9日、「ハンマーヘッド」は2回目の哨戒で南シナ海 に向かった。10月1日夜、北緯06度28分 東経116度14分 / 北緯6.467度 東経116.233度 / 6.467; 116.233 のボルネオ島 北岸海域でミ18船団を発見。追跡の上、日付が10月2日になるならないのころに攻撃。魚雷を計8本発射し、2つの目標に命中するのを確認した。この攻撃で2隻の輸送船、「日和丸 」(日本郵船 、5,320トン)と「日金丸 」(日本郵船、5,320トン)は数分で沈没し、輸送船「国星丸 」(大阪商船 、5,494トン)も間もなく沈没したとする[ 注釈 1] 。
10月20日未明には、北緯04度45分 東経113度30分 / 北緯4.750度 東経113.500度 / 4.750; 113.500 の地点でサマ13船団を探知。魚雷を6本発射して2つの激しい爆発を観測し、4本目と5本目の魚雷が命中したのであろうと判断される。続いて魚雷を4本発射し、こちらも2つの爆発を確認した。さらに魚雷を4本発射して2つの命中があったとし、これですべての魚雷を撃ち尽くした。「ハンマーヘッド」の一連の攻撃で、2隻の輸送船、「羽後丸 」(大阪商船、3,684トン)と「旺洋丸 」(東洋汽船 、5,458トン)を撃沈した。なお、「ハンマーヘッド」は10月21日までブルネイ 沖で哨戒していたが、栗田健男 中将率いる第二遊撃部隊のブルネイ湾 到着に気付いた様子はない。
10月28日未明、南緯08度39分 東経115度50分 / 南緯8.650度 東経115.833度 / -8.650; 115.833 の地点で「ハンマーヘッド」のレーダーが1つの目標を探知するが、やがて目標の姿が見え始め、哨戒艇か「日本の潜水艦」と推定されたため砲撃を開始。ハンマーヘッドは20発ほど撃って200ヤードまで接近したところ、相手は敵ではなく味方の「グロウラー (USS Growler, SS-215 ) 」であることがわかり、砲撃を止めた。11月2日、54日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
第3、第4の哨戒 1944年11月 - 1945年3月
11月25日、「ハンマーヘッド」は3回目の哨戒で「パドル (USS Paddle, SS-263 ) 」および「レイポン (USS Lapon, SS-260 ) 」とともに南シナ海に向かった。12月7日夜、「ハンマーヘッド」は北緯04度02分 東経111度12分 / 北緯4.033度 東経111.200度 / 4.033; 111.200 のボルネオ島クチン 沖でシマ臨時船団を発見し、「パドル」「ミンゴ (USS Mingo, SS-261 ) 」とともに追跡する。「ハンマーヘッド」は最初の攻撃で魚雷を6本発射するが命中せず、時間をおいて再度魚雷を計9本発射し、魚雷は2本がタンカー「松栄丸 」(日東汽船、2,854トン)に命中。「パドル」も魚雷を6本発射して、おそらくは「松栄丸」に命中したものとして扱われた[ 27] 。松栄丸は大火災の末沈没していった[ 注釈 2] 。「ハンマーヘッド」は攻撃後の12月9日未明に「パドル」と会合して、攻撃の様子を聞き出した。12月18日には、北緯13度51分 東経117度17分 / 北緯13.850度 東経117.283度 / 13.850; 117.283 の地点で4隻編成の輸送船団を発見して「レイポン」とともに攻撃にあたり、魚雷を6本発射したが命中しなかった。1945年1月17日、52日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長がジョージ・H・レイド・ジュニア中佐(アナポリス1933年組)に代わった。
2月10日、「ハンマーヘッド」は4回目の哨戒で「バヤ (USS Baya, SS-318 ) 」とともに南シナ海に向かった。2月23日午前、「ハンマーヘッド」は北緯12度42分 東経109度30分 / 北緯12.700度 東経109.500度 / 12.700; 109.500 のインドシナ半島 バレラ岬沖南方20キロ地点で南号作戦 のヒ88h船団を発見。魚雷を4本発射し、2本が海防艦 「屋久 」の艦首に命中して轟沈した。「ハンマーヘッド」は追撃してきた別の護衛艦に対して魚雷を1本だけ発射したが、これは命中しなかった。ところが、攻撃後にレイド艦長が急病で倒れたため、哨戒を打ち切った。3月3日、22日間の行動を終えてスービック湾 に帰投。レイド艦長は病のため退艦し、艦長がフランク・M・スミス中佐(アナポリス1935年組)に代わった。
第5、第6の哨戒 1945年3月 - 5月
3月10日、「ハンマーヘッド」は5回目の哨戒で南シナ海に向かった。3月26日未明、直前に「ガーナード (USS Gurnard, SS-254 ) 」と会合していた「ハンマーヘッド」は、2隻の「海防艦」を発見して魚雷を4本発射するが、命中しなかった。この敵に対しては「ガーナード」も魚雷を4本発射したが、こちらも回避された[ 37] 。3月29日朝、「ハンマーヘッド」は北緯14度40分 東経109度16分 / 北緯14.667度 東経109.267度 / 14.667; 109.267 のインドシナ半島アンヨ岬北北東20海里の地点で、南号作戦の最終船団であるヒ88J船団 を発見した。魚雷を3本ずつ計6本発射し、魚雷は船団最後尾を航行していた「第84号海防艦 」を直撃してこれを撃沈。「第84号海防艦」の戦死者は191名を数え、その中には中等野球 の名選手 で、一等兵曹として乗艦していた嶋清一 も含まれていた。ヒ88J船団は直後に航空攻撃で全滅した。4月6日、28日間の行動を終えてスービック湾に帰投した。
4月30日、「ハンマーヘッド」は6回目の哨戒で南シナ海およびタイランド湾 方面に向かった。5月6日に哨戒海域に到着し、その夜に北緯08度15分 東経102度00分 / 北緯8.250度 東経102.000度 / 8.250; 102.000 の地点で小型タンカーと2隻の護衛艦を発見した。最大射程で魚雷を4本発射したが当たらず再度魚雷を4本発射し、2本が特設運送船(給油)「金鈴丸 」(日本油槽船、867トン)に命中して撃沈した。午後に入り、哨戒機を配した1,000トン級輸送船と100トン級トロール船改装哨戒艇を発見し、魚雷を4本発射したが命中せず、反転してさらに魚雷を3本発射したが、やはり命中しなかった[ 43] 。5月14日、「ハンマーヘッド」はタイランド湾で、ハティエン からシンガポール に向かっていた陸軍輸送船「鳥取丸 」(日本郵船、5,973トン)と護衛の敷設艦 「初鷹 」を発見した。この2隻には「コビア (USS Cobia, SS-245 ) 」も接触していたが、「コビア」は「鳥取丸」に向けて魚雷を5本発射したが命中せず、「初鷹」の反撃で撃退されていた[ 44] 。「ハンマーヘッド」は午後に入り魚雷を3本発射して「鳥取丸」に1本命中させたが、不発であった。攻撃後、荒天の中2隻を追跡し、5月15日1時27分に北緯09度58分 東経101度05分 / 北緯9.967度 東経101.083度 / 9.967; 101.083 の地点にいたったところで「鳥取丸」に向けて魚雷を3本発射し、2本を命中させて撃沈した。撃沈したのが「鳥取丸」であることは、浮き輪 を確認して判明した。5月24日、25日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
第7の哨戒 1945年6月 - 8月
6月21日、「ハンマーヘッド」は7回目の哨戒でタイランド湾に向かった。7月10日未明、北緯09度38分 東経101度30分 / 北緯9.633度 東経101.500度 / 9.633; 101.500 タイランド湾中央部で2隻の850トン級「シュガー・チャーリー・シュガーズ」と250トン級哨戒艇を発見し、2つの目標に対して魚雷を3本ずつ計6本発射。この6本の魚雷は命中していないが、おそらくマーク27誘導魚雷 (英語版 ) を発射してタンカー「第五南明丸 」(南方油槽船、834トン)と輸送船「Sakura Maru 」(不詳、900トン)を撃沈したと認定された[ 注釈 3] 。
その後、「ハンマーヘッド」は本国への帰還命令を受け、途中で終戦を迎えたあと、8月16日にサイパン島 タナパグ湾 (英語版 ) に寄港。8月21日、60日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。
戦後・トルコ海軍で
「ハンマーヘッド」はメア・アイランド海軍造船所 に回航された後、1946年2月9日に退役した。その後メア・アイランド海軍造船所で予備役艦隊入りした後、朝鮮戦争 の勃発により1952年2月6日に再就役し、サンディエゴ からサンフランシスコ までの西海岸で訓練を行う。朝鮮戦争休戦後、1953年8月21日に再び退役し、予備役艦隊入りした。その後、相互防衛援助プログラムの下、メア・アイランド海軍造船所でGUPPY改修 が行われ、1954年7月16日にトルコ海軍 への貸与準備のために再就役する。1954年10月23日に退役、同日トルコ海軍に貸与され、ジェルベ (TCG Cerbe, S 341 ) と改名された。当初の艦番号は S 03 であったが、後に S 341 に変更された。艦は1972年1月1日に正式にトルコに売却され、その後スクラップとして廃棄された。
「ハンマーヘッド」は第二次世界大戦 の戦功で7個の従軍星章および1個の海軍殊勲部隊章を受章した。7回の哨戒はすべて成功として記録された。
脚注
注釈
^ 国星丸の沈没に関しては、「10月24日沈没」という記録もある[ 15] 。ただし、8本中2本命中という「ハンマーヘッド」の記録が正しいとなると、命中が2つで沈没が3隻というのは計算が合わない。しかし、ミ18船団攻撃の見取り図では命中が3つずつの計6つと記録されている。
^ この経緯から、「松栄丸」撃沈は「ハンマーヘッド」と「パドル」の共同戦果となっている。
^ マーク27誘導魚雷は秘密兵器の一つであり、使用して攻撃した際の攻撃報告は、通常のものとは別に行われていた(一例として#SS-274, USS ROCK pp.63-66)。USS HAMMERHEAD , p. 279では撃沈スコアに "Separate Report" と付記されているが、その "Separate Report" はUSS HAMMERHEADには掲載されていない。秘密兵器ではあるが、タナパグ湾停泊中にマーク27誘導魚雷を陸揚げした記録がある。
出典
参考文献
Bauer, K. Jack; Roberts, Stephen S. (1991). Register of Ships of the U.S. Navy, 1775-1990: Major Combatants . Westport, Connecticut: Greenwood Press. pp. 271-273. ISBN 0-313-26202-0
Blair,Jr, Clay (1975). Silent Victory The U.S.Submarine War Against Japan . Philadelphia and New York: J. B. Lippincott Company. ISBN 0-397-00753-1
Friedman, Norman (1995). U.S. Submarines Through 1945: An Illustrated Design History . Annapolis, Maryland: United States Naval Institute. ISBN 1-55750-263-3
Roscoe, Theodore. United States Submarine Operetions in World War II . Annapolis, Maryland: Naval Institute press. ISBN 0-87021-731-3
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林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年、92-240頁。
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外部リンク