フィリップ2世 (フランス語 :Philippe II , 1342年 1月17日 - 1404年 4月27日 )は、ヴァロワ家 の初代ブルゴーニュ 公 (在位:1363年 - 1404年)。ヴァロワ=ブルゴーニュ家 の祖。「豪胆公」(ル・アルディ/le Hardi ) と呼ばれる。
フランス 王 ジャン2世 (善良王)とボンヌ (ボヘミア 王 ヨハン (盲目王)の王女)の四男。シャルル5世 、アンジュー 公 ルイ1世 、ベリー公 ジャン1世 の弟。
生涯
生い立ち
ポワティエの戦い におけるジャン2世とフィリップ(19世紀画)
1342年 1月17日 、聖アントニウス の祝日に誕生した[ 注釈 1] 。
当初、父王からトゥレーヌ を封土(親王領/アパナージュ )として与えられた[ 注釈 2] が、これと交換する形で、1363年9月6日にカペー家の後継者が絶えたブルゴーニュ公領を与えられた[ 3] 。ただし、ブルゴーニュ公に封じられたことが公表されたのは、父ジャン2世の崩御後、兄シャルル5世 が発布した1364年6月の勅書によってであった。
婚姻と領地拡大
マルグリットとの婚礼
1364年11月26日、若きブルゴーニュ公はディジョン に入城した。フィリップ2世は、カペー家最後のブルゴーニュ公フィリップ1世 の逝去後、ブルゴーニュ女伯 マルグリット・ド・フランス に継承された伯領(コンテ)の併合を強く望んだ。兄シャルル5世の対英百年戦争 における外交的利害とも一致し、兄弟はマルグリットの孫娘であり、フィリップ1世の婚約者だったマルグリット・ド・ダンピエール との婚姻を推進する。もともとカペー家出身のマルグリット・ド・フランスも、孫娘の縁組相手にイングランドのエドマンド王子 ではなくフランスを望み、息子であるフランドル伯 ルイ2世 を説得した。
こうして、1369年 6月19日 、ブルゴーニュ公フィリップ2世はマルグリット・ド・ダンピエール と、ヘント (仏:ガン)で盛大な婚礼を挙げた。この婚姻により、ブルゴーニュ伯 領、ルテル伯 領、ヌヴェール伯 (英語版 ) 領、アルトワ伯 (英語版 ) 領やフランドル伯 領が、将来的にフィリップ2世に継承されることとなった。シャルル5世は、婚姻成立の見返りに、フランドル伯にワロン地域 (現代のベルギー南部)を割譲せねばならず、また対英政策を重視するあまりブルゴーニュ公領の拡大の脅威には思い至らなかった。
従軍
婚姻と同じ1369年、仏王シャルル5世はブレティニー条約 の破棄を通告し、英仏百年戦争 は第2段階に突入した。以後約20年に渡り、フィリップ2世は兄たちと共に王族の「義務」として戦争に従軍することとなった。ブルゴーニュ公領の統治は、ウード・ド・グランシー(Eudes VII de Grancey )に任せた。フィリップ豪胆公は、1373年と1380年のイングランドによるブルターニュ侵攻時に、目覚ましい活躍を見せた。
国内外での闘争
1380年9月、賢王シャルル5世が42歳で崩御する。シャルル5世は、幼い息子シャルル6世 (狂気王)の統治下で混乱をきたさないよう、王族や帰属に細かな役割分担を遺書に認めていたが、王の叔父(シャルル5世の弟)たちの対立が深まっていった。同年11月30日、国王のおじ達は、協同統治の盟約を結んだ。
1380年 から1388年 までは2人の兄アンジュー公ルイ1世やベリー公ジャン1世やブルボン公 ルイ2世 と共に甥のシャルル6世 (狂気王)の摂政 を務めた。その間権力と勢力の拡大に努め、強い影響力を持つようになる。
1382年 に舅のフランドル伯ルイ2世がヘント などフランドルの都市反乱(ヘントの反乱 (1379–1385年) (英語版 ) )で劣勢に立たされると、シャルル6世の支援を取り付け舅に加勢する。同年11月27日 、ローゼベーケの戦い で反乱の指導者フィリップ・ヴァン・アルテベルデ (英語版 ) [ 注釈 3] を討ち取り、反乱を鎮圧した。
1384年 1月30日、フランドル伯ルイ2世が逝去すると、いよいよ妻と共にフランドルを相続した。同年5月、新たな所領を訪問するが、フランドルの各都市は容易に帰順することは無かった。しかしフィリップ豪胆公は、対立ではなく和解を求め、公的な書状に(フランドルで用いられる)フラマン語 を認めさせる[ 注釈 4] 等の柔軟な姿勢が奏功し、1385年12月のトゥルネーの和約 (英語版 ) によりヘント 市と、フランドル伯・ブルゴーニュ公との和解が成立し、各市の特権が追認された。
1386年、グレート・ブリテン島 への侵攻計画が持ち上がるが、延期が繰り返され、ついに実現することは無かった。
シャルル6世の親政、発病
1388年11月、20歳になっていたシャルル6世がランス で宣言を行い、親政を始めると、叔父たちも権力から遠ざけられた。フィリップ豪胆公は、逆上する兄ベリー公を「いずれ時が来る」[ 注釈 5] となだめた。国王の親政宣言は、シャルル5世時代の顧問官たち「マルムゼ (英語版 ) 」[ 注釈 6] の共謀による結果だった。
ところが1392年 9月、シャルル6世が精神異常の兆候を示す。以降、1400年頃までに統治が不可能な状態となった。「マルムゼ」は失脚し、摂政権をめぐってシャルル6世の弟オルレアン公 ルイ も叔父たちと協力しなければならなくなった。ベリー公はラングドッグ の王国総代官(軍最高司令官職)になったため、オルレアン公と会議の場で向かい合うのは豪胆公の役目となった。
対立の焦点は外交にあり、教会大分裂 で終息を望みローマ を支持するパリ大学 に同調する豪胆公に対し、オルレアン公はアヴィニョン を支持した。ミラノ公国 との姻戚関係から北イタリア 介入を企むオルレアン公を豪胆公が阻止する。1400年 にローマ王 ヴェンツェル が廃位されると豪胆公はヴィッテルスバッハ家出身の新たなローマ王ループレヒト を支持したが、オルレアン公はヴェンツェル支持というように、2人はことごとく対立した。また、シャルル6世の側近だったフランス王軍司令官 オリヴィエ・ド・クリッソン を失脚させている[ 21] 。
また、1396年9月には、嫡男ヌヴェール伯ジャン (後のブルゴーニュ公、ジャン無怖公)も参加したニコポリス十字軍 が大敗を喫し、捕虜となったジャンの釈放には20万フロリンの莫大な費用を要した[ 注釈 7] 。フィリップ豪胆公はさして落胆せず、むしろ新たな騎士団を創設している。
1402年 に両者はパリ 周辺に軍勢を集め武力衝突寸前となったが、王妃イザボー・ド・バヴィエール を始め王族達の説得で和睦。1403年 にイザボー王妃を中心とする政権が樹立した。これらの争いは後にブルゴーニュ派 対アルマニャック派 の争いとなりフランスを混乱に追い込むが、豪胆公の生存中は、あくまで宮廷闘争の範疇に収まっていた。とはいえ豪胆公の権力は健在で、孫娘マルグリット をルイ 王太子 と婚約させ、同時にマルグリットの弟で同名の孫フィリップ (後のフィリップ3世)と王太子の姉ミシェル との婚約も成立、より王家と親密になった。また、1400年にイングランド王ヘンリー4世 とシャルル6世の休戦協定に尽力した他、かつて敵対していたクリッソンから幼少のブルターニュ 公 ジャン5世 ・アルテュール 兄弟を託され、後見人として養育している。
フィリップ豪胆公の墓所(ディジョン )
妻の伯母に当たるブラバント女公ジャンヌ には子が無いため、豪胆公の次男アントワーヌ を後継者にする取り決めがなされ、アントワーヌを伴いブリュッセル へ旅立ちジャンヌと面会させた。滞在中に体調を崩したため近郊のハレ (英語版 ) (エノー伯領 、現ベルギー)へ移り、4月27日、その地で息を引き取った。
生涯に渡って金銭に悩みが多く、豪胆公の急死に、遺された妻子は葬儀費用の工面に奔走することとなった。
ブルゴーニュ公位はジャンが、ブラバント公位は1406年 にジャンヌ亡き後にアントワーヌが嗣いだ[ 26] 。
権勢拡大の一方で芸術にも関心が深く、メルキオール・ブルーデルラム 、クラウス・スリューテル 、ジャン・マルエル 、リンブルク兄弟 らを招聘して書庫の拡充、多彩なタペストリーの収集、金銀細工・彫刻などあらゆる豪華な飾り立てを奨励、家族の墓所としてディジョン にシャンモル修道院 を建造して自身もここに埋葬、フランドルの宮廷に華麗な文化を根付かせた[ 27] 。
家族
フィリップ2世が開いた公爵家は、ブルゴーニュで2番目にして最後のものとなった。マルグリット3世 との間には9子をもうけた。
結婚政策
北への領土拡大のため1385年 4月12日 に長男ジャン (後のジャン1世)と長女マルグリット をフランドル近郊のエノー伯 ・ホラント伯 ・ゼーラント伯 であるヴィッテルスバッハ家 のバイエルン公 アルブレヒト1世 の娘マルグリット と息子ヴィルヘルム を結婚させ(カンブレー二重結婚 )、3伯領に足掛かりを作った。更に7月17日 、シャルル6世とヴィッテルスバッハ家出身のイザボー・ド・バヴィエール を結婚させ王家にも食い込んでいった[ 28] 。
1393年には、カトリーヌ とマリー (出立は1403年)を、相次いで東方の君主と婚姻させた。
系譜
フィリップ3世 (フランス王) の四男。
フランス 王ルイ9世 の王女、同フィリップ3世 の末妹。
ジャン1世 (ブラバント公) の娘。
ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝) の娘。
脚注
注釈
^ 後年、豪胆公自身も聖アントニウスへの信心を公言し、この日を盛大に祝うようになった。
^ フランス王家の王子は、代々の相続財産として土地の贈与を受けることが慣例であるが、一方で、男系子孫が絶えた場合には王に返戻する条件付きであった。
^ ヤコブ・ヴァン・アルテベルデ の息子。
^ 近現代に至るまで、同地における言語対立を背景とした民族対立が残る。言語戦争 等も参照。
^ これはベリー公の銘句であり、豪胆公自身の銘句は「私は待てぬ」だった。
^ 小怪物、グロテスクな顔の小人を意味する蔑称。
^ ただし、ジャンは勇名を馳せ、無怖公(サン・プール)の渾名を受けることとなる。
出典
^ 清水、P59 - P60、佐藤2014、P50 - P52、P64 - P65。
^ エチュヴェリー、P53 - P58、清水、P62 - P65、P69 - P70、佐藤2014、P100 - P101、P109 - P110。
^ エチュヴェリー、P62 - P64、清水、P70 - P72、カルメット、P96 - P99、P169、佐藤2014、P112 - P113。
^ 清水、P61、カルメット、P100 - P113。
^ エチュヴェリー、P51 - P53、清水、P60 - P62、佐藤2014、P95 - P100。
参考文献
関連項目