フランソワーズ・マリー・ド・ブルボン
フランソワーズ・マリー・ド・ブルボン(Françoise Marie de Bourbon, 1677年5月4日 - 1749年2月1日[1])は、オルレアン公フィリップ2世の妻。“ラ・セコンド・マドモワゼル・ド・ブロワ”(La seconde Mademoiselle de Blois, 第二ブロワ令嬢)と呼ばれた。 生涯ルイ14世とモンテスパン夫人の庶子として生まれ、1681年に認知された。ブージヴァル等で育ち、1692年1月9日に、当時シャルトル公だった従兄フィリップと結婚する。王から200万リーヴルの持参金がつけられたが、夫と義母エリザベートの先入観をなくすには不十分な額だった。フランソワーズの母親は、ラ・ヴォワザンの毒殺事件に関係してから急激に寵愛を失っており、そんな醜聞を引き起こした人物の娘と、王弟オルレアン公フィリップ1世の長子との縁組みは不釣り合いであると、エリザベートは考えていた。 フランソワーズはフィリップとの間に8子を生んだ。フィリップは妻を裏切って多くの愛妾を持ち、妻を放置していた。1701年、フィリップがオルレアン公となり、その結果フランス宮廷でのフランソワーズの地位は、王太子妃マリー・アデライードに次いで2番目ということになった。しかし、フランソワーズはそういった晴れがましい立場を面倒に思い、体調が悪いという理由をつけて、自室で友人の女性らに取り巻かれて時間を過ごしていた。 フランソワーズは、4歳年上の姉ルイーズ・フランソワーズ(コンデ公ルイ3世の妻)と互いを妬み、張り合っていた。1710年には、王太子ルイ(グラン・ドーファン)の三男ベリー公シャルルがどちらの娘に結婚を申し込むかで喧嘩した。フランソワーズは、王太子妃マリー・アデライードはもちろん、マントノン夫人[2]にまで根回しをし、結局フランソワーズの次女マリー・ルイーズがベリー公と結婚した。 1715年、ルイ14世が亡くなると、幼いルイ15世の補佐するため夫が摂政となった。1721年に四女ルイーズ・エリザベートがスペイン王ルイス1世と結婚すると、フランソワーズは大変喜んだという。1723年に夫フィリップが死ぬと、サン=クルー城に引退し、そこで1749年に死んだ。 子女
脚注
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