フランツ・ギュルトナー (ドイツ語 : Franz Gürtner, 1881年 8月26日 - 1941年 1月29日 )は、ドイツ の裁判官 、法曹 、政治家 。ヴァイマール共和国 、ナチス・ドイツ 期にかけて法曹 の大臣職を歴任し、ヒトラー内閣 で法相 を務めた。
略歴
1881年 8月26日 、ドイツ帝国 領邦 バイエルン王国 のレーゲンスブルク に機関車技師フランツ・ギュルトナーとその妻マリア(Maria)(旧姓ヴァインツェール(Weinzierl))の息子として生まれた[ 1] 。
1900年 にレーゲンスブルク のノイエ・ギムナジウム(現アルブレヒト・アルトドルファー・ギムナジウム)を卒業後、ミュンヘン大学 に入学して法学を学んだ[ 2] 。1904年 に大学試験に合格。バイエルンの予備試験を中断し、歩兵第11連隊 に1年間の志願兵として入隊した。1908年 に二度目のバイエルン司法国家試験に合格し、ミュンヘン で検察官として働くとともに、バイエルン王国司法省の人事部に勤務した[ 1] 。1911年 までミュンヘン第一地方裁判所の第三検事であり、1912年 1月 にはミュンヘン地方裁判所の判事に任命された[ 3] 。
1914年 8月7日 、ギュルトナーは予備役将校として第一次世界大戦 に出兵し、歩兵第11連隊に徴兵された。当初は西部戦線 に配属された。副大隊長まで昇進し、二級鉄十字章 と一級鉄十字章 [ 1] [ 2] 、バイエルン軍人功労勲章を授与された。1917年 9月 からは、バイエルン歩兵702大隊と共にパレスチナ のパシャ第2遠征軍団に参加。この功績により、ホーエンツォレルン王家剣付き騎士十字章とオスマン戦争章を受章[ 4] 。オスマン帝国 が降伏した1918年 10月31日 に大隊長に任命され、大隊を率いてコンスタンティノープル に戻り、1919年 3月17日 にヴィルヘルムスハーフェン に到着し、そこで復員した。大戦中に大尉 (Hauptmann)まで昇進した。
戦後は法曹 界に戻り、1919年4月11日 、ミュンヘン第一管区裁判所の第二検事として勤務を開始した。その4日前、ミュンヘンでソビエト共和国 が宣言されたが、バンベルク憲法の下で宣誓し、1920年 7月 にはヴァイマル憲法 の下で宣誓した。翌月、地方裁判所長官に任命され、再びバイエルン法務省に戻った。
ギュルトナーは1922年 11月8日 、ドイツ国家人民党 バイエルン支部の代表としてオイゲン・フォン・クニリング 内閣、続くハインリヒ・ヘルトヘルト 内閣の法務相に就任した[ 2] 。
保守政党ドイツ国家人民党 の党員でもあるギュルトナーは右翼 犯罪者には大変同情的であった。ヒトラー はじめミュンヘン一揆 で罪に問われた国家社会主義ドイツ労働者党 (ナチ党)の党員たちにも寛大な判決を下されるよう手回しした[ 2] 。またランツベルク刑務所 に収監されたヒトラーが早期釈放されるようにし、釈放後、ただちにナチ党 が合法化できるよう取り計らっている[ 5] 。
1932年 にはドイツ国首相 フランツ・フォン・パーペン からドイツ国法務相 (Reichsjustizminister)に指名された。続くクルト・フォン・シュライヒャー 内閣でも留任した[ 5] 。
1933年 1月30日 にナチ党党首ヒトラーが首相に就任した 後も、彼の下で法相に留任した。ドイツ裁判官協会を国家社会主義法律家協会に合流させるなど司法のナチ化を進め、ナチ党司法全国指導者 ハンス・フランク 主導の国家社会主義ドイツ法アカデミーの創設メンバーの一人であった[ 6] 。
一方で司法の独立を守ろうとすることもあり、また強制収容所 での囚人の拷問やゲシュタポ の無法な捜査には嫌悪感を示すこともあった[ 5] 。
しかし1935年 時点ですでに法相ギュルトナーも内相ヴィルヘルム・フリック も親衛隊 に対して口を差し挟むことはできなくなっており、何らの歯止め役にもならなかった。[ 5] それでも解任に至ることはなかった。レーム一揆 の政治的粛清で殺害されたカトリック の政治家でプロイセン内務省警察部長だったエーリヒ・クラウゼナー 未亡人の代理人としてゲシュタポに拘束された弁護士の釈放に貢献。彼は、拷問によって自白を引き出すゲシュタポのやり方に抗議したが、1935年以降、彼の政治的影響力は次第に弱くなっていった。
1937年1月30日にはヒトラーよりナチス党員名誉金章 を授与され、同時にナチ党に入党している(党員番号385,232)。
ギュルトナーの主導で、ヒトラーは1936年 10月14日 、ドイツにおける死刑は今後、処刑斧の代わりにギロチン で執行されることを決定した[ 7] 。ギュルトナーは法相として、法律や政令の形でナチスによる多数の不正行為に署名した。その中には、ヴァイマル憲法の市民権を停止し、ゲシュタポの法的根拠となった「帝国議会火災令」や、ユダヤ人 と「アーリア人 」による性的行為を処罰の対象とした「ニュルンベルク法 」などが含まれる。さらに1934年 には、レーム一揆での殺人を合法化しようとし、行政権と立法権の分離の廃止を意味する「国家緊急防衛措置法」(Staatsnotwehrgesetz)に署名した[ 8] 。同様に、ユダヤ人にそれぞれ「イスラエル」と「サラ」という差別的なファーストネームを強制的に与えた「姓と名の変更に関する法律の実施に関する第二次法令」(Staatsnotwehrgesetz)の署名者の一人でもあった[ 9] 。1939年 から開始されたT4作戦 に関しては、ギュルトナーをはじめとする司法省関係者はまったく知らされておらず、これが発覚したのは1940年 7月 のギュルトナーあて投書によってであった。ギュルトナーは法に基づかない安楽死には反対し、作戦の中止か法制化かを求めていたが、ヒトラーの意志が法制化によらない安楽死であることを知ると、「法源 」であるヒトラーの意志に従い、T4作戦への介入を禁じた。
ギュルトナーは1938年 、国家社会主義 体制に批判的だった歴史家のリカルダ・フック (ドイツ語版 ) とその義理の息子フランツ・ベーム を刑事訴訟から救った。彼はヒトラーによる恩赦の一環として、オーストリア のアンシュルス の後、彼らに対する訴訟を取り下げさせることに成功した[ 12] 。
第二次世界大戦 中、法務省の弱々しい抗議はさらに弱体化し、法が機能することはなくなった。地区判事で告白教会 のメンバーであったローター・クライシヒは、T4作戦は違法であると正しい抗議の手紙をギュルトナーに送った。ギュルトナーはそこでT4作戦のことを初めて知ったが、「総統の意志を法源として認めることができないのであれば、裁判官であり続けることはできない」と告げ[ 13] [ 14] 、クライシヒを即座に解任した。
1941年1月29日にベルリン で死去した[ 1] [ 15] 。
参考文献
出典
^ a b c d LeMO
^ a b c d ヴィストリヒ、44頁
^ Cuno Horkenbach (Hrsg.): Das Deutsche Reich von 1918 bis heute. Band III, Verlag für Presse und Wirtschaft, Berlin 1933, S. 511.
^ Das Deutsche Führerlexikon 1934/1935. Berlin 1934, S. 516.
^ a b c d ヴィストリヒ、45頁
^ Hans Frank (Hrsg.): Jahrbuch der Akademie für Deutsches Recht, 1. Jahrgang 1933/34. Schweitzer Verlag, München/Berlin/Leipzig, S. 254.
^ Hinrichtungen in Plötzensee 1933–1945. (Memento des Originals vom 25. 12月 2010 im Internet Archive ) 情報 Der Archivlink wurde automatisch eingesetzt und noch nicht geprüft. Bitte prüfe Original- und Archivlink gemäß Anleitung und entferne dann diesen Hinweis.@2 Vorlage:Webachiv/IABot/www.gedenkstaette-ploetzensee.de Gedenkstätte Plötzensee , abgerufen 12. Dezember 2010.
^ Große Bayerische Biographische Enzyklopädie. Band 1, de Gruyter, Berlin 2005, S. 714.
^ Ernst Klee : Das Personenlexikon zum Dritten Reich. Wer war was vor und nach 1945 . Zweite, aktualisierte Auflage. Fischer Taschenbuch Verlag, Frankfurt am Main 2005, S. 209.
^ Alexander Hollerbach : Streiflichter zu Leben und Werk Franz Böhms. Duncker & Humblot, Berlin 1989, S. 290.
^ Kershaw, Ian. Hitler 1936-1945: Nemesis . II . p. 254
^ Bartrop, Paul R.; Grimm, Eve E. (11 January 2019). “Gürtner, Franz (1881-1941)” . Perpetrating the Holocaust: Leaders, Enablers, and Collaborators . p. 121. ISBN 9781440858970 . https://books.google.com/books?id=SymBDwAAQBAJ&pg=PA121
^ ヴィストリヒ、46頁