フリッツ・カッシーラー
フリードリヒ(フリッツ)・レオポルト・カッシーラー(Friedrich (Fritz) Leopold Cassirer, 1871年3月29日 - 1926年11月26日)は、ドイツの指揮者。 生涯カッシーラーはブレスラウ(ヴロツワフ)に生まれた。父のユリウスは9人兄弟であり、妻のユルヒャー(ユリー)(Julcher (Julie))とは曾祖父を同じくする遠い親戚だった[1]。フリッツはハンス・プフィッツナーとグスタフ・ホーレンダーに師事して音楽を学び、後にリューベック、ポズナン、ザールブリュッケン、エルバーフェルトとドイツのオペラハウスの指揮者を歴任した[2]。 カッシーラーがエルバーフェルトのオペラハウスの職に就いていた時、同僚のハンス・ハイムが彼にフレデリック・ディーリアスの音楽を紹介した。ディーリアス作品のドイツ国内での知名度は低く、また国外でもほとんど知られていない頃だった[3]。ハイム同様カッシーラーも、ディーリアスの音楽を世に広めるのに大きな役割を果たすことになる。彼は1904年にエルバーフェルトでディーリアスのオペラ「コアンガ」を初演し、ディーリアスの世俗的合唱曲「人生のミサ」の作曲に当たっては、作曲者がニーチェの詩を抜粋するのを手助けした。また、1907年にはオペラ「村のロメオとジュリエット」のベルリン・コーミッシェ・オーパーでの初演を取りまとめた[2]。 コーミッシェ・オーパー会社の一員として1907年に同団体と共にロンドンを訪れたカッシーラーは、オッフェンバックの「ホフマン物語」を上演した[4]。ロンドンでいくつかのコンサートで指揮台に上がった彼であったが、その中ではトーマス・ビーチャムのニュー・シンフォニー・オーケストラとも共演し、ディーリアスの「アパラチア」を演奏している。その時までディーリアスの音楽を全く知らなかったビーチャムは驚嘆し、以降生涯を通じてディーリアス音楽に身を投じることになった[5]。ビーチャムはカッシーラーに関して「やや好みが難しいながらも、天性の良さ」があると称賛していた[6]。 カッシーラーはニューヨークのマンハッタン・センターからの出演依頼を断った後、ミュンヘンで隠居暮らしを始め、余生を哲学や文学の研究に費やした。彼はベルリンで55年の生涯を閉じた[2]。 私生活カッシーラーはリリー・ディスペッカー(Lily Dispecker)と結婚した。2人は一人娘のエファ・シャルロッテ・カッシーラー(Eva Charlotte-)を授かった。エファは父の従兄弟であったフリードリヒ・ヴィルヘルム・カッシーラー(この人物もフリッツとして知られる)と結婚する。彼は一時期ベルリンのドイツ座を運営し、またマックス・ラインハルトの興行マネージャーも務めた[1]。 脚注
参考文献
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