フリードリヒ・カール・フェルディナント (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=ベーヴェルン公)
フリードリヒ・カール・フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=ベーヴェルン(ドイツ語: Friedrich Karl Ferdinand von Braunschweig-Wolfenbüttel-Bevern、1729年4月5日 - 1809年4月27日)は、ヴェルフ家の一員、最後のブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン公(在任:1781年 - 1809年)。デンマーク=ノルウェー元帥。 生涯ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=ベーヴェルン公エルンスト・フェルディナントとエレオノーレ・シャルロッテ・フォン・ケトラーの息子として生まれた。1742年に大尉としてオランダ軍に入隊した後、1745年と1746年の戦役に参戦した。その後はブラウンシュヴァイク軍に移り、神聖ローマ帝国軍にも志願兵として入隊した。伯父ルートヴィヒ・エルンスト・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルの指導でBoth'sche連隊を率いてオーストリア継承戦争を戦った。アーヘンの和約の後はオランダ軍に戻り、1754年には少将に昇進した。 七年戦争が勃発した後の1756年末にドレスデンに向かい、プロイセン王フリードリヒ2世からザクセンのプリンツ・クサーヴァー歩兵連隊の指揮を委ねられた。しかし、兵士たちが反乱を起こして逃げたため、フリードリヒ2世は彼に責任を問うた。1759年にプロイセン軍から去り、イギリス軍に入隊した。同年8月1日のミンデンの戦いでは従弟フェルディナントの下で戦った。続いてデンマーク軍に入隊、1761年に中将に、1762年に歩兵親衛隊の指揮官、1764年に歩兵軍総監に昇進した。1766年にレンツブルク知事、1773年にコペンハーゲン知事に任命された。 1781年、兄のアウグスト・ヴィルヘルムが死去したため、フリードリヒ・カール・ヴィルヘルムはブラウンシュヴァイク=ベーヴェルンを継承、ブラウンシュヴァイクにある2つの修道院の院長になった。1782年、元帥に昇進した。また、デンマーク王クリスチャン7世の許可を得てグリュックスブルク城に住居を移した。 1782年10月26日、ナッサウ=ザールブリュッケン侯ヴィルヘルム・ハインリヒの娘アンナ・カロリーネ(1751年 - 1824年)と結婚した。 1793年、首都ベーヴェルンで救貧基金を創設した。1806年にブラウンシュヴァイクがナポレオン・ボナパルトの軍勢に占領されると、フリードリヒ・カール・フェルディナントは逃亡してきたブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール・ヴィルヘルム・フェルディナントの息子たちを受け入れた。 1809年、子供のないまま死去した。これに伴いブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン公家が断絶、領地はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルが回収した。 脚注参考文献
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