フリードリヒ・ヴィルヘルム (1652年ごろ)
フリードリヒ・ヴィルヘルム (Friedrich Wilhelm, 1620年 2月16日 - 1688年 5月9日 )は、ブランデンブルク選帝侯 およびプロイセン公 (在位:1640年 12月1日 - 1688年5月9日)。プロイセン公国をポーランド 支配から解放し、フェールベリンの戦い などに勝利して領内からスウェーデン 勢力を駆逐したため、大選帝侯 (der große Kurfürst)と称えられる。
生涯
フリードリヒ・ヴィルヘルムは1620年2月16日、ベルリン 近郊のケルンでブランデンブルク選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルム とその妃であるプファルツ選帝侯 フリードリヒ4世 の娘エリーザベト・シャルロッテ の間に生まれた。1627年 、三十年戦争 から逃れてキュストリン に移り、1634年 から1638年 までオランダ へ留学していた。
1640年、父の死去にともなってフリードリヒ・ヴィルヘルムは弱冠20歳でブランデンブルク選帝侯となるが、いまだブランデンブルクが不穏な状態にあるためプロイセンに留まった。1642年 にグスタフ2世アドルフ の娘で16歳の従妹、スウェーデン女王クリスティーナ に求婚するが、この縁談は破談となった。彼女がカトリック に同情的であったためと思われる。1643年 にブランデンブルクへ戻り、初めてベルリンを訪れ、臣下から忠誠の誓いを受ける。
1646年 に母の従妹ルイーゼ・ヘンリエッテ (オランダ総督 、オラニエ公 フレデリック・ヘンドリック とアマーリエ・フォン・ゾルムス=ブラウンフェルス の娘)と結婚し、クレーフェ に移った。1650年 に義兄のオランダ総督ウィレム2世 が亡くなり妻の甥ウィレム3世 (後のイングランド 王ウィリアム3世)が幼少のためオランダが無総督時代 に移行すると、姑アマーリエとウィレム3世の母メアリー・ヘンリエッタ と共にウィレム3世の後見人を務めた[ 1] 。
父の代の1637年 にポンメルン公国 の統治者が死亡してスウェーデンとブランデンブルクとの争いが発生、フリードリヒ・ヴィルヘルムは継承権を主張したが、1648年 のヴェストファーレン条約 でスウェーデンが西部(フォアポンメルン)を、ブランデンブルクはあまり価値が無い東部(ヒンターポンメルン)を相続することになった。この時から軍備拡張を政策に掲げ、1653年 に地方議会からユンカー の特権保障と引き換えに課税権の承認を受け、常備軍の設置に必要な税制の整備を始めた。クレーフェやプロイセンでも反対を受けつつ課税は成功し、この後の戦いを勝ち抜くための基礎となった。
1655年 、プロイセン公国の宗主国 をポーランドからスウェーデンへと替えたフリードリヒ・ヴィルヘルムは翌1656年 、ワルシャワの戦い でスウェーデンと共に戦ってポーランド=ロシア 連合軍を破り、ラビアウ条約 でプロイセンの主権を獲得した(大洪水時代 )。しかしプロイセンの支配権を安定させるため、選帝侯はその後もしばしば同盟の相手を変えながら、ユトランド やフォアポンメルンを転戦する。
1660年 のオリヴァ条約 でフリードリヒ・ヴィルヘルムは最終的な支配権を獲得し、ケーニヒスベルク で起こった暴動も鎮圧して住民に忠誠を誓わせた。この時点でプロイセンはポーランドとスウェーデンの宗主下から脱し自立、選帝侯 としては神聖ローマ皇帝 の臣下であったが、既にブランデンブルク=プロイセン は北東ヨーロッパにおける地位を築いていた。また、直接税と間接税による恒常的な財源確保及び官僚機構の整備による中央集権化も進みブランデンブルクは徐々に発展していった[ 2] 。
フリードリヒ・ヴィルヘルム(1688年)
1672年 に仏蘭戦争 が勃発すると当初はフランス王国 と同盟を結んでいた関係で中立だったが、オランダと条約を結びフランスから離反した。しかし1673年 にはフランス大元帥 テュレンヌ に領土を攻め込まれ一旦和睦、翌1674年 に再度反フランスに転じてアルザス で帝国軍と合流したが、1675年 1月5日 にテュレンヌの奇襲を受けて敗走、アルザスから撤退した(テュルクハイムの戦い )。この後、フランス王ルイ14世 と結んだスウェーデンがドイツに侵入したため北へ転戦してスウェーデンとの戦争を始めた(スウェーデン・ブランデンブルク戦争 )。
1675年6月18日 、フリードリヒ・ヴィルヘルムはスウェーデン軍をベルリン近郊のフェールベリンで勝利、続いて1676年 から1679年 まで前ポンメルン、東プロイセン 、シュテッティン でもスウェーデンと戦い、1678年 には艦隊を率いてリューゲン島 やシュトラールズント 、グライフスヴァルト に遠征して、バルト海 を支配するスウェーデンをはじめ、周辺国を威圧した。この艦隊はさらに増強されて、遠く西アフリカ 沿岸にまで遠征し、ギニア にグロース=フリードリヒスベルク市を建設したり、奴隷貿易 にたずさわったりしている。そして1679年 にフランス主導の元、スウェーデンとサン=ジェルマン の講和を行い、ポンメルンを返還したが、ブランデンブルク=プロイセンからのスウェーデンの影響力を完全に排除させる事に成功した[ 3] 。
1685年 10月29日、フリードリヒ・ヴィルヘルムはポツダム勅令 を発し、フォンテーヌブローの勅令 によってフランスから流入したユグノー 難民に避難所を与えた。この勅令によってブランデンブルクには2万の難民が移住し、そのうち5千はベルリンに住み、フランスの高度な技術や文化をブランデンブルクに伝えた。翌1686年 に神聖ローマ皇帝 レオポルト1世 を始めとする帝国諸侯とアウクスブルク同盟 を締結してフランスに備えた。
1688年5月9日、68歳でポツダム で没し、息子のフリードリヒ3世 (後のプロイセン王 フリードリヒ1世)が後を継いだ。大選帝侯が残した常備軍の兵力は3万に上り、その税制や、移民を受け入れる宗教的寛容とともに後のプロイセン王国 を築く基礎となった。
子女
最初の結婚
フリードリヒ・ヴィルヘルムと最初の妃ルイーゼ・ヘンリエッテ
1646年12月7日、フリードリヒ・ヴィルヘルムはハーグ でネーデルラント総督のオラニエ公フレデリック・ヘンドリック の娘ルイーゼ・ヘンリエッテ と最初の結婚をし、間に5男1女をもうけた。ルイーゼとは1667年に死別した。
ヴィルヘルム・ハインリヒ(1648年 - 1649年)
カール・エミール(1655年 - 1674年)
フリードリヒ (1657年 - 1713年) - ブランデンブルク選帝侯、プロイセン王
アマーリア(1664年 - 1665年)
ハインリヒ(1664年) - アマリアの双子の弟
ルートヴィヒ(1666年 - 1687年) - ラジヴィル=ビルツェ侯女シャルロッテ と結婚
2度目の結婚
1668年 6月14日 、フリードリヒ・ヴィルヘルムはハルバーシュタット 近郊のグレーニンゲン城において、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク 公フィリップ の娘ドロテア・ゾフィー と結婚式を挙げた。ドロテアはリューネブルク侯 クリスティアン・ルートヴィヒ の未亡人であり、再婚同士の夫婦であった。夫妻は4男3女に恵まれた。
ドロテアは選帝侯家を継げない自分の産んだ息子達の財産を確保するため、シュヴェート とヴィルデンブルフ(現在のポーランド 領スフォブニツァ )の領地を購入した。1701年 に継子の選帝侯フリードリヒ3世がプロイセンの王 となった際、ドロテアの産んだ息子達もプロイセンの王子(Prinz in Preußen)及びブランデンブルク辺境伯(Markgraf zu Brandenburg)の称号を与えられた。彼らの家系はブランデンブルク=シュヴェート 辺境伯家と呼ばれ、1788年 までプロイセン王家の分家として存続した。また、ドロテアは夫の心を動かし、ブランデンブルク選帝侯領をフリードリヒ3世と自分の息子達の間で分割相続させる、という約束を一時的に取り付けることまでした。後に撤回されたこの約束のため、フリードリヒ3世は異母弟達との間で即位後10年にわたって揉めることになった。
フリードリヒ・ヴィルヘルムが登場する小説
脚注
^ 成瀬、P48 - P49、ハフナー、P41、友清、P105。
^ 成瀬、P50 - P55。
^ ハフナー、P35 - P37、友清、P132、P178 - P179、P190、P193、P199 - P201、P204、P214 - P216。
参考文献
関連項目