ブレーブス・フィールド
ブレーブス・フィールド(Braves Field)は、アメリカのマサチューセッツ州ボストンにかつて存在した野球場。MLBボストン・ブレーブス(現アトランタ・ブレーブス)が1915年のシーズン途中から1952年の閉場まで本拠地にしていた。また、1932年の1年だけアメリカンフットボールにも使用され、NFLボストン・ブレーブス(現ワシントン・コマンダース)が球団設立1年目の本拠地にした。 球場の歴史1900年代初頭に起きた鉄筋コンクリート製球場建設ブームの中で、ブレーブスと同じボストンに本拠地を置くレッドソックスが1912年に新球場フェンウェイ・パークへ移転。一方ブレーブスはまだ木製のサウス・エンド・グラウンズを本拠地にしていたが、ブレーブスオーナーのジェームス・ガフニーはこれを機に新球場建設を決断。1914年にコモンウェルス・アベニュー沿いの土地を確保すると、1915年3月20日に建設を開始。8月18日、開場した。当時としては史上最大の収容能力と広大なフィールドを持つ大球場だった。 ブレーブスが球団名をビーズに変更した1936年、球場名がナショナル・リーグ・パーク(National League Park)に改称された。しかしファンの間では、チーム名にちなんでザ・ビー・ハイブ(The Bee Hive=ハチの巣)という愛称が定着した。1941年からビーズが球団名をブレーブスに戻したことで、球場名もブレーブス・フィールドに戻った。 ブレーブスの人気はあまり高くなく、ブレーブス・フィールドを本拠地にし始めた1915年から1950年までの1試合平均観客動員は約5,450人だった。これはレッドソックスの同期間の1試合平均観客動員に比べて約2,190人も少ない。特に1941年から1950年にかけての数字はレッドソックスの13,170人に対し、ブレーブスは約9,300人しかなかった。 当時のブレーブスオーナーのルー・ペリーニは状況を打開すべくレッドソックスオーナーのトム・ヨーキーにある提案をする。それはブレーブスがフェンウェイ・パークに移転し、レッドソックスと“同居”することだった。しかしヨーキーは拒絶する。 1953年シーズン開幕直前の3月13日、ブレーブスはボストンから出てウィスコンシン州ミルウォーキーへ移転することを発表した。ブレーブス・フィールドはボストン大学に売却され、一部を残し解体されたのち、ニッカーソン・フィールドとして生まれ変わった。 フィールドの特徴ブレーブス・フィールドは開場時は、外野が左翼402フィート(約122.5メートル)、中堅440フィート(約134.1メートル)、中堅最深部550フィート(約167.6メートル)、右翼402フィートと、歴史上でも屈指の広さだった。これはガフニーがランニングホームラン好きだったことに由来する。更に中堅方向から本塁方向へ風が吹き込むため、柵越えのホームランは1925年まで1本も出なかった。 しかし1920年代に入りボールの弾力性が飛躍的に向上して各球場で柵越えホームランが増えると、ガフニーの好きな野球とファンが望む野球の乖離が進む。ブレーブス・フィールドの外野フェンスは次第に前に出てくるようになり、1930年の時点で左翼340フィート(約103.6メートル)、中堅394.5フィート(約120.2メートル)、右翼298フィート(約90.8メートル)にまで縮小された。 内野の芝は、ブレーブスが以前本拠地にしていたサウス・エンド・グラウンズから移植されたもの。 主要な出来事
|