スペイン人はマゼラン海峡に沿った海岸の獲得を2度試みた。
最初は1584年で、"Nombre de Jesús"と言う作戦の名前がついているが、天候が荒れていたことや、食物や水が入手困難であったことなどから、失敗に終わった。
2度目は、Rey don Felipeが、プンタ・アレーナスの80km南方の場所の獲得を試みた。
その場所は、後にプエルト・アンブレ (Puerto Hambre) と呼ばれたが、時には、飢餓の港 (Port Starvation)、飢饉の港 (Famine Port) などと翻訳されることもあった。
スペイン人たちがこの土地を選んだ理由としては、マゼラン海峡を支配することにより、イギリスの海賊からの攻撃を避ける意味合いもあったが、皮肉なことに1587年にプエルト・アンブレの最後の居住者を救出したのは、イギリスの海賊トーマス・キャベンディシュであった。
1843年、チリ政府はマゼラン海峡の沿岸に永住区域を創設するための任務を託された遠征隊を送り出した。
"Goleta Ancud"という名前の帆船を、"Juan Williams Rebolledo"の父である英国人船員のジョン・ウィリアム(John Williams)に委託し、建造させ、21人の乗組員と積み荷を運び、チリ政府からの命令を果たした。
植民市の創設は1843年9月21日に開始された。
この場所は、海岸線の防御を使命とする軍の駐屯地としては最適であったが、小さく山がちな半島の頂上に位置していたため、民間居住地用にするための準備は、ほとんどなされていなかった。
そのため、軍の統治者であったホセ・デ・ロス・サントス・マルドネス (José de los Santos Mardones)が、1848年に居住地を、マナス川沿いの現在の場所に移転する決定を下した。
19世紀中ごろ、チリはプンタ・アレーナスを、移民用の植民地としてだけでなく、問題のある行動をおこした軍人に懲罰を与えるための流刑地とした。1851年12月、Cambiaso中佐に率いられた囚人の反乱が起き、統治者のムニョス・ゴメス(Muñoz Gamero)と聖職者が殺害され、教会や病院が破壊された。
この反乱は、2隻のチリ船(IndefatigableとMeteoro)の支援を受けたHMS Viragoの指揮官スチワート(Stewart)によって鎮圧された。
"El motín de los artilleros"の名前で知られる1877年の反乱では、街の大部分が破壊され、囚人と直接関係のなかった多くの市民が犠牲となった。
その後、帆船による貿易の増加と、羊毛業の発展、金鉱の発見を伴いながら、街は発展、繁栄していった。
1890年と1940年の間くらいに、マゼラン海峡エリアは、世界的に羊毛業の最も重要なエリアの一つとなり、1つの"Sociedad Explotadora de Tierra del Fuego"という名の1つの会社が、チリとアルゼンチンの南部の1万km2以上の土地を支配するようになった。
この会社の本社及び、所有者の住所は、プンタ・アレーナスであった。