マイク・ペルフリー
マイケル・アラン・ペルフリー(Michael Alan Pelfrey, 1984年1月14日 - )は、アメリカ合衆国オハイオ州ライト・パターソン空軍基地出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。愛称はビッグ・ペルフ[1]。 経歴プロ入り前2002年のMLBドラフト15巡目(全体434位)でタンパベイ・デビルレイズ(現:レイズ)からで指名されたが、契約せずにウィチタ州立大学へ進学。 プロ入りとメッツ時代2005年のMLBドラフト1巡目(全体9位)でニューヨーク・メッツから指名され、契約金350万ドル、4年総額530万ドルのメジャー契約で入団[2]。 2006年7月7日にメジャー昇格を果たし、故障者リスト入りしたペドロ・マルティネスに代わり先発ローテーション入り[3]。翌8日のフロリダ・マーリンズ戦でメジャーデビューを果たし、5回を3失点(自責点2)に抑え、メジャー初勝利を記録した。しかし、8月2日にAAA級ノーフォーク・タイズへ降格[4]。その後はメジャーに昇格することなくシーズンを終え、メジャーでは4試合の登板で2勝1敗・防御率5.48を記録。2007年はA+級セントルーシー・メッツで開幕を迎えたが、4月13日にメジャー昇格を果たした[5]。しかし、ペルフリーは7月6日にかけて7連敗を喫し、シーズン初勝利は9月1日のセントルイス・カージナルス戦だった。 2008年は先発ローテーション入りを果たし、32試合に登板で13勝11敗・防御率3.72を記録。 2009年は31先発・184.1イニングはチーム最多となったが、先発・投球回数を含め、防御率5.03・10勝12敗は前年より悪化した。 2010年は、キャリアハイの15勝を記録した。 2012年は5月にトミー・ジョン手術を受け、3試合の登板に終わった。オフにノンテンダーFAになった。 ツインズ時代2012年12月20日に年俸400万ドルと出来高150万ドルの1年契約でミネソタ・ツインズに移籍した[6]。 2013年は前年に受けたトミー・ジョン手術の影響が残り、序盤戦は炎上したが (4月の防御率は7.66) 、7月と8月は月間防御率3.00台を記録し、復活[7]。しかし、序盤で打ち込まれた事が響き、シーズン通算では防御率5.19・5勝13敗という成績に終わった。10月31日にFAとなったが、12月14日にツインズと2年総額1100万ドルで契約に合意したことを報道され[8]、12月24日に球団が発表した[9]。 2014年、複数年契約1年目のシーズンだったが、5試合で防御率7.99、勝ち星がつかずに3敗を喫するなど、前年の4月にもまして大炎上した。 2015年は復活し、先発ローテーションに入って30試合に投げた。6勝11敗・防御率4.26という成績を残したほか、ア・リーグ1位の被本塁打率0.60を記録した。同年11月2日にFAとなった[10]。 タイガース時代2015年12月6日にデトロイト・タイガースと2年1600万ドルで契約を結んだ[11]。 2016年は24試合に登板し、2試合だけはリリーフ登板だった。4勝11敗・防御率5.07という成績に終わり、2011年以降断続的に続く負け越し渦から脱せなかった。 ホワイトソックス時代2017年4月5日にシカゴ・ホワイトソックスとマイナー契約を結んだと報道され[13]、8日に正式契約した[14]。4月22日にメジャー契約を結んでアクティブ・ロースター入りし、クリーブランド・インディアンス戦で先発したが、4.1回を4失点で敗戦投手となった[15]。この年は34試合(先発21試合)に登板して3勝12敗・防御率5.93・79奪三振の成績を残した。オフの11月2日にFAとなった[16]。 引退後2018年2月に引退を表明し、今後はニューマン大学のコーチを務める[17]。 投球スタイルシンカー系の速球を武器に打たせて捕るタイプのグラウンドボールピッチャー[18]で、2015年にはリーグ1位となる29併殺を記録した。マウンドで指を何度も舐めることで知られ、1試合に89回も舐めたという珍妙な記録を持つ[19]。 詳細情報年度別投手成績
背番号
脚注
関連項目外部リンク
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