ユリアン・ウルスィン・ニェムツェヴィチ (Julian Ursyn Niemcewicz、ポーランド語: [ˈjuljan ˈursɨn ɲɛmˈtsɛvitʂ] 、 nyemt-SAY -vitch [ 1] ; 1758年 2月6日 – 1841年 5月21日 )は、ポーランド の詩人、劇作家、政治家。1791年5月3日の憲法 を先導して擁護した人物であった[ 2] 。
若き頃
ユリアンは1758年2月6日、ポーランド・リトアニア共和国 のブレスト (現ベラルーシ 領)近郊のスコキ (Skoki ; 同じく現ベラルーシ領)で生まれた。適度に裕福なポーランド貴族 の家の末裔である彼は、ワルシャワ の士官候補生団 (英語版 ) を卒業した[ 3] 。
経歴
バルヴィツキ(Barwicki)による『ニェムツェヴィチ』。
士官候補生団を卒業後アダム・カジミェシュ・チャルトリスキ の補佐官を務め、フランス 、イングランド 、イタリア を歴訪する。彼は1788年から1792年までの4年間セイム の議員を務め、歴史的な1791年5月3日の憲法 の採択を推し進めた愛国派 の活発な党員であった。彼はその後、その進歩的な文書の実施を支援するために結成された憲法の友(ポーランド語 : Zgromadzenie Przyjaciół Konstytucji Rządowej )の創設者でもあった。 1792年のタルゴヴィツァ連盟 の勝利やその結果としての5月3日憲法の転覆の後、彼は他の愛国派のメンバーとともにドイツ への移住を余儀なくされる[ 2] 。
1795年のコシチュシュコ蜂起 の間、彼はタデウシュ・コシチュシュコ の補佐官を務めていたが、この2人とニェムツェヴィチの副官であったクジニェフスキ(Kuźniewski )という人物は1794年のマチェヨヴィツェの戦い (英語版 ) でロシア軍の捕虜となり、サンクトペテルブルク のペトロパヴロフスク要塞 へ投獄された[ 4] [ 5] 。1796年、女帝 エカチェリーナ2世 の死後、彼らはパーヴェル1世 によって解放され、共にアメリカ合衆国 へと向かった[ 6] 。彼らはイングランドのブリストル からアドリアーナ号(Adriana)という船に乗って、ポルトガルの修道院長・植物学者でニェムツェヴィチやコシチュシュコの牧師も務めたジョゼ・コレイア・ダ・セラ [ 注 1] と共に航海した。彼らは1797年8月18日フィラデルフィア に到着した[ 7] 。アメリカ滞在中、彼はナイアガラの滝 を訪れた[ 8] 。1798年、彼はアメリカ哲学協会 のメンバーとして選出された[ 9] 。
彼はコシチュシュコが何の知らせもなくヨーロッパに向けて逐電した際には動揺した[ 10] 。ナポレオン が1807年にポーランドに侵攻した後、ニェムツェヴィチはワルシャワに戻り、上院の秘書になった[ 11] 。 ウィーン会議 の後、彼は国務長官およびポーランドの憲法委員会の委員長を務めた。ポーランド王国 時代、ニェムツェヴィチはポーランドの文化的生活の中心人物であり、彼の倫理的な影響力はコンスタンチン大公 の政治・軍事力に比されるものであった[ 2] [ 12] 。
1830年5月11日、彼はワルシャワの「科学の友協会 (英語版 ) 」の中心地であるスタシツ宮殿 (英語版 ) 前に、新たなランドマークとして彫刻家ベルテル・トルバルセン によるニコラウス・コペルニクス記念碑 (英語版 ) の披露を行った。失敗に終わることとなる11月蜂起 (1830年-31年)の間、彼はポーランド政府の反乱軍のメンバーであった。蜂起の最後の数ヶ月で、詩人でもあった彼は外交的使命から(イギリスへの最後のポーランド特使として)ロンドンへと赴き、1841年に亡くなるまで、当初はイギリス、ついでフランスで亡命生活を送り続けることとなった[ 2] [ 13] 。
作品
ニェムツェヴィチは書き手としては多くの作品形式に挑んだ。彼の政治喜劇 Powrót posła 〈議員の帰還〉(1790年) は、大きな好評を得た[ 14] 。ウォルター・スコット卿 のスタイルで書かれた彼の小説、Jan z Tęczyna 〈テンチンのヤン〉(1825年) は、古きポーランドの活気に満ちた雰囲気を伝えている。彼はまた Dzieje panowania Zygmunta III 〈ズィグムント3世 の治世の歴史〉(全3巻、1819年) と古代ポーランドの歴史に関する回想録集(全6巻、1822年から23年)を書いた[ 15] 。
彼の1817年の時事小論文 Rok 3333 czyli sen niesłychany 〈3333年すなわち前代未聞の夢)は、死後の1858年になって初刊行されたが、ここでは邪悪な Judeopolonia [ 注 2] に変貌したポーランドが描かれている。このパンフレットに関しては、「既存の社会構造を直接的に脅かす組織化されたユダヤ人の陰謀という概念を大規模に助長することになる最初のポーランド語作品」と述べられている[ 16] 。彼の作品集は1838年から40年にライプツィヒで47巻が出版された[ 15] 。
私生活
ワルシャワのウルスィヌフ (Ursynów )地区にあるクラシンスキ宮殿は1822年以降はニェムツェヴィチの邸宅であった
アメリカ合衆国にいる間、ニェムツェヴィチは裕福な未亡人リビングストン・キーン(Livingston Kean; 出生名: スーザン・リビングストン)と出会い、1800年に結婚したが、彼女はその前に彼を息子のピーター・キーンの家庭教師として雇っていた[ 17] [ 18] 。リビングストン家 (英語版 ) の一員であったスーザンはピーター・ヴァン・ブルー・リビングストン の娘であり、大陸会議 のサウスカロライナ州 代表であるジョン・キーン (John Kean )の未亡人であった[ 11] [ 19] 。
ユリアンは1841年5月21日にフランスのパリ で83歳で亡くなり、ヴァル=ドワーズ県のモンモランシー にあるシャンポー(Champeaux)墓地に埋葬された[ 17] [ 20] 。
刊行された作品
脚注
注釈
^ José Correia da Serra (1750年–1823年)。植物学的には後の1800年にベルノキ をオレンジの仲間と分析して今日受容されている Aegle marmelos という学名 を提唱し、1807年にはセンダン科 の果樹ランサ Lansium domesticum を新種として記載するといった業績を挙げることとなる。
^ ポーランドがユダヤ人 に乗っ取られるのではないかという反ユダヤ主義 陰謀論 。
出典
^ "Niemcewitz" . Merriam-Webster Dictionary . 2021年4月28日閲覧 。
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^ a b 「ニェムツェーウィチ 」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』2014年。
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参考文献
外部リンク