ライッシゲン
歴史町の名は、古高ドイツ語で人物名ランクティーシュ(Langtis)に地名の接尾辞イングン(-ingun)が付いた「ランクティーシュの人々の」という語に由来する。歴史の上では、1285年にレンセンニュ(Lensengne)という名で初めて現れる。1290年にはレンクシンゲン(Lenxingen)と呼ばれている[1]。 人が居住した最古の形跡は、青銅器時代の斧や短刀、剣が見つかっている。中世に歴史で最初に記録された当時、ライッシゲンはウンスプネン=ローテンフルー領に属していた。その後、ヴァイッセナウ城のエッシェンバッハ男爵家が引き継ぎ、1334年にはインターラーケン修道院に譲渡され、その後2世紀は修道院の支配下にあった。1528年、ベルン市が宗教改革を受け入れると、ベルン高地にもそれを強制してきた。修道院とラウターブルンネンなどの村々は新教に対して蜂起したが、ベルンに鎮圧され、修道院は世俗化されて支配地はすべて接収された[1]。 ライッシゲンの最古の教会は、7世紀か8世紀頃の木造のものであったと考えられる。これが9世紀か10世紀に石造のものに建て替えられた。さらに11世紀には中世盛期の石造様式に建て替えられ、『シュトレットリーガー記録』(Strättliger Chronik)にはトゥーン湖の周囲にある12の教会のうちの一つに挙げられている。現在の建物は、1675年の大火事の後で建てられたものである[1]。 伝統的にライッシゲンの多くの住民がトゥーン湖での漁業従事者や船大工であり、その他は湖と山の間の狭い土地で農業を営んでいて、生活はトゥーン湖と密接な関係を保持してきた。ところが1780年に、湖岸付近の鉱泉に温泉地が建設されると、生活に変化が生じ、鉱泉は1873年に枯渇したものの、小さいながら観光産業が生まれることとなった。1887年には蒸気船が接岸する桟橋が設けられ、旅客や貨物の湖上交通の拠点の一つとなった。 現在では、ライッシゲンでは住民は小さな工場や小規模事業、夏季の観光業などに従事している。また、労働人口の3分の2は、インターラーケンやベルン付近まで通勤するようになっている[1]。 地理ライッシゲンはベルン高地にあり、トゥーン湖の南岸に位置する。中心的な村落と散在する農家によって構成されており、村域は湖岸から森を通ってアルプスにまで至る。南側の境界には、標高2,249 m (7,379 ft)のモルゲンベルクホルン山(Morgenberghorn)がある。山腹には美しい景観で有名なマイエリーザルプ集落(Meielisalp)があり、ホテルとレストランがある。 境界を接する自治体は、東側のトゥーン湖沿いにデアリゲン、尾根を挟んで南東にザクセテンと南西にフルーティゲン・ニーダージンメンタール区のアエシー・バイ・シュピーツ、西側のトゥーン湖沿いに同区のクラッティゲンである。 脚注 |