レオノール・デ・アルブルケルケ
レオノール・デ・アルブルケルケ(スペイン語: Leonor de Alburquerque 1374年 - 1435年12月)は、アラゴン王フェルナンド1世の王妃[1]。レオノール・ウラカ・デ・カスティーリャ(Leonor Urraca de Castilla)とも呼ばれる。父はカスティーリャ王エンリケ2世の弟サンチョ・デ・アルブルケルケ、母はポルトガル王ペドロ1世の庶子ベアトリス。夫フェルナンド1世の父カスティーリャ王フアン1世は、レオノール本人の従兄に当たる。子息が不在であった1420には、アラゴン王国の摂政を務めた[2]。 家族レオノールの出身地はサラマンカのアルデアダビラ・デ・ラ・リベラ(英語版)であった。父サンチョ(初代アルブルケルケ伯爵)は祖父アルフォンソ11世[3]と愛妾レオノール・デ・グスマンの間に生まれ、父方の伯父にカスティーリャ王エンリケ2世がある。レオノールの母はベアトリス・デ・ポルトゥガルといい、祖父母ペドロ1世と愛妾イネス・デ・カストロの間の庶子であった[3]。 結婚と王妃の座1394年、カスティーリャ王子であったフェルナンドと結婚した。レオノールの婚約者はもともとエンリケ(父)の庶子フレデリックであったが、その婚約は破棄された。 カスティーリャ王フアン1世が1390年10月9日に没したときに摂政評議会は相続人として、当時11歳の長男エンリケ(子)と年子の二男フェルナンドの扱いを協議し、弟は兄が14歳になるまで結婚できない点、そののちに成人として政治および社会の特権を与えられる点が合意された。 20年ほどさかのぼると、1369年3月にカスティーリャ王ペドロ1世は母違いの弟エンリケ(父)に殺害された。聖職者や貴族、紳士階級や商人の代表、カスティーリャのいくつかの都市の公認法定代表が集められ、エンリケと殺害されたペドロの孫同士、つまり同名のエンリケ(子)とカタリナ(外孫)との婚姻の約束がまとまった[注釈 1]。またエンリケ王子がこれらの条件を満たしたら、その時に弟のフェルナンド王子は妻として、善良で高潔で裕福な女性を迎えることになった。 こうしてフェルナンドの許嫁(いいなずけ)にレオノール・デ・アルブルケルケが選ばれた。16歳で結婚できる年齢だったこともあり婚姻に同意したものの、フェルナンドはまだ10歳で兄も14歳に達しておらず、結婚はすぐには実現しない。レオノールは従兄のヤン1世(カスティーリャ王)からアルブケルケとラ・コドセラに加えて5つの都市と3つの町を与えられており[注釈 2]、裕福な花嫁候補はフェルナンドを取り巻く人々にとって非常に魅力があった。 1394年にレオノールはフェルナンドと結婚し、幸せな日々を送ったと伝わっている。やがてカスペの妥協が成立した1412年に夫妻はアラゴン王国の王と王妃の座につく。レオノールの戴冠式は1414年に挙げられた。 子供2人の間には5男2女が生まれた。
系図
参考文献本文の典拠。発行年の順。
脚注注釈出典
外部リンク
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