レーニン廟 (レーニンびょう、ロシア語 : Мавзолей Ленина , ラテン文字転写 : Mavzoley Lenina )は、ロシア連邦 モスクワ市 中心部の赤の広場 にあるウラジーミル・レーニン の霊廟 である。
沿革
1924年 1月21日にレーニンが死去すると、1月27日の葬儀までに、赤の広場 のクレムリンの壁の前にアレクセイ・シューセフ の設計による廟 が急造された[ 1] 。葬儀当日、レーニンの棺はこの廟の内部に安置され、葬儀の終了後もその場で展示された[ 1] 。その後の6週間で10万人以上の人々が棺を見るために廟を訪れた[ 2] 。当初、レーニンの遺体は最終的に埋葬 される予定であったが、共産党上層部は方針を転換し、遺体に保存処理(エンバーミング )を施した上で、恒久的に展示することを決定した。1924年5月までに、赤の広場には以前のものよりも大規模かつ精巧な、シューセフの設計による木造の霊廟が建設された[ 1] 。エンバーミングを経た遺体は新しい霊廟に展示され、1924年8月から一般公開された[ 1] 。1930年 にはより恒常的な施設として、現在の花崗岩 造の霊廟が建設された。
1953年 にヨシフ・スターリン が死去 するとその遺体も保存処理が施されレーニンと並んで安置され、廟の名称も「レーニン・スターリン廟(Мавзолей Ленина-Сталина )」に改められていたが、1961年 の「第二次スターリン批判 」に伴ってスターリンの遺体は撤去されて廟の名称も再びレーニン廟に戻され、クレムリンの壁とレーニン廟の間にある英雄墓域に埋葬された。スターリン以後のソ連最高指導者のうち、在職のまま死去したレオニード・ブレジネフ 、ユーリ・アンドロポフ 、コンスタンティン・チェルネンコ の3名もこの墓域に埋葬されている。
赤の広場で行われる国家的行事に際しては、ソビエト連邦共産党 ・政府の首脳 はレーニン廟のひな壇から観閲し、演説を行うのが慣例となっていた。レーニン廟に並ぶ指導者の顔ぶれや序列は、西側諸国 のジャーナリスト・研究者にとって、ソ連指導部の動向を知る手がかりの一つであった(クレムリノロジー )。
ソビエト連邦解体 後、何度も廟の撤去案が持ち上がっているが、その都度多くの反対に合い、撤去されないまま現在にいたっている。撤去案を支持する主張は政府がレーニン廟への財政的支援を打ち切り、個人の寄付でレーニンの遺体の保存を担当するスタッフを支えるというものである[ 3] 。
2011年 1月にロシアの政権 与党 である統一ロシア がレーニン廟撤去の賛否投票を行えるサイト(外部リンク参照)を立ち上げた。2012年 12月に大統領のウラジーミル・プーチン は撤去反対派のロシア連邦共産党 と軌を一にしてレーニンを聖遺物 に準えて保存を主張して、東方正教会 の一部から批判を受けた[ 4] 。
2016年、ロシア政府は遺体の保存を継続する事を決定し、遺体の保存のために1300万ルーブル を費やす事を計画した[ 5] 。2018年RIAノーボスチ はウラジーミル・ペトロフがレーニンの遺体をレーニン廟から撤去する事についての問題を調査するための特別委員会の設置を提案したと報じた。ウラジーミル・ペトロフはレニングラード州議会議員である。ペトロフはレーニンの遺体を人工の樹脂でできたコピーに取り替える事に賛成している。共産党員であるドミトリー・ノヴィコブはペトロフの提案に強く反対している[ 6] 。
レーニンの死と国葬
レーニンの死
ウラジーミル・レーニン
1924年1月21日、ボリシェヴィキ を率いてソビエト連邦 を建国したウラジーミル・レーニン が脳出血により死去した。レーニンはこれ以前にも脳出血に見舞われており、4回目の脳出血により死去した。ソ連政府はレーニンの死因を「血管の不治の病」と記録した。指導部の1人であったニコライ・ブハーリン はレーニンの最期を見届けた1人でもある。
防腐処理の決定
ヨシフ・スターリン などの指導部は以前から遺体の今後に頭を悩ませており、スターリンはレーニンの遺体に防腐処理を施す という地方の同志による案 を指導部による会議で発表した。この案はレフ・トロツキー など他の指導部メンバーからは反対されたが、最終的に防腐処理を施された。レーニンの妻であるナデジダ・クルプスカヤ も防腐処理(永久保存)に反対していた。
霊廟の建造
葬儀の様子を描いた作品(イサーク・ブロツキー作)
レーニンの死から2日後の1924年1月23日、レーニンの遺体は専用の列車でゴールキの邸宅 からモスクワへ輸送された。モスクワ到着後レーニンの遺体は団結の家 (ロシア語版 ) に3日間安置され、27日には赤の広場中央に造られた霊廟に移動された。霊廟の設計はソ連の著名な建築家であるアレクセイ・シューセフ であり、後に造られる新たな木造霊廟、そして石造霊廟の設計も担当した。
遺体の腐敗
仮設霊廟
防腐処理を施されたレーニンの遺体であったが、数ヶ月後には肌が黒ずむなどの腐敗が進行した。そこで指導部はレーニン遺体保存研究所の設置を決定し、霊廟に実験室を作るよう命じた[ 7] 。科学者による薬剤の投与などにより遺体の腐敗は止まり、7月にはソビエト連邦中央執行委員会 が公式的に遺体の防腐処理が成功したと発表した。
構造
モスクワ 成立870周年記念イベントにてレーニン廟後方を歩くプーチン大統領らロシア政府幹部(2017年)
構造は、ジェセル王の階段ピラミッド や大キュロス の墓のような古代の霊廟からのいくつかの要素を参考にしている。
ソ連時代にはレーニン廟に付いているパレード専用の観覧席が政府幹部のパレード観覧に使われた。この観覧席はソ連崩壊後、1996年 まで使われたが、1997年 以降は廟の前に仮設のひな壇が設置され、観覧席としての役目は終えている。
1983年 には廟の後ろにエスカレーター が付けられており、現存している。このエスカレーターは1983年、ブレジネフ ら高齢化した政府幹部を霊廟の観覧席まで送るために作られたが、1982年にブレジネフが死去したことにより、ブレジネフが使うことはなかった。アンドロポフ 以降、1995年までこのエスカレーターが政府幹部を霊廟観覧席まで運ぶために使われた(1996年は、政府幹部は霊廟正面の階段から観覧席に行ったため、エスカレーターは使われていない)。ロシア政府は、2012年に行われた改装工事の第二段階として、このエスカレーターの撤去を行うと発表しているが、2022年現在エスカレーターは撤去されていない。
レーニンの遺体の安置室まで続く階段はラブラドル長石 で作られ、非常に暗い。安置室は正方形で、上に照明がある。
軍事パレード
ソ連時代に開催されたパレードと90年代ロシアの2回のパレードでは、レーニン廟は政府高官の観覧席となった。この観覧席が最初に使われたのは1937年メーデーパレードで、最後に使われたのがソ連崩壊後の1996年に開催された対独戦勝51周年記念パレード である。この霊廟は時代によって登壇場所が異なり、1983年5月のメーデーパレード以前は霊廟正面の左右に設置された付属の階段から登壇したが、1983年11月の10月革命 66周年記念パレード以降は霊廟背後に付けられたエスカレーターを登り、82年以前は通路ではなかった所を通り、広場の左側にいる観客に手を振った。しかし、1996年のパレードでは霊廟こそは使われたが、エスカレーターは使用されてない。
改修
2012年12月末には、著しく老朽化が進んだレーニン廟の本格的改修を行うことが決定し、2013年4月まで改修工事が行われた[ 8] 。
1993年10月6日まではレーニン廟の入口にも衛兵が立っており、クレムリン の鐘の音に合わせて1時間毎に交代をしていたが、現在ではそういった光景は無くなっており見ることが出来ない。
レーニン廟におけるクレムリン連隊時代の衛兵。(1990年)
1924年5月に完成した初代の木造のレーニン廟
[ 1] を訪れるソ連市民、1925年。
「レーニン・スターリン廟」時代の1957年。
レーニン廟の壇上で宇宙飛行士(左から、
ガガーリン 、
ポポーヴィチ 、
テレシコワ )と談笑する
フルシチョフ 、1963年。
レーニン廟前で演説する
プーチン 大統領、2001年。
影響
レーニン廟の影響をうけ、いくつかの共産主義 国家などで指導者の遺体が永久保存処理され、これを安置する廟がつくられている。エンバーミング#エンバーミングされた著名人 も参照。
現在も設置されているもの
現在は撤去されたもの
なお、キューバ のチェ・ゲバラ霊廟 は、チェ・ゲバラ が1967年にボリビア で戦死したため、例外的に遺体そのものを欠いた形で出発した。他の施設が首都の中心部に建てられたのに対し、ゲバラゆかりの地サンタ・クララ に建てられた点も独特である。その後1997年にゲバラの遺骨がボリビアから返還され、これが納められた。
今日、観光客が廟内を訪れる際、敬意を示さなければならない他、写真撮影、会話、喫煙、手をポケットに入れる事、帽子を被る事は禁じられている[ 9] 。
脚注
参考文献
『レーニンをミイラにした男』(イリヤ・ズバルスキー/サミュエル・ハッチンソン、赤根洋子訳、文春文庫 、2000年)
関連項目
外部リンク
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