一ノ瀬憲明一ノ瀬 憲明 (いちのせ のりあき、1956年3月1日[1] - 1987年8月3日[2]) は、宮崎県出身[3]のオートバイ・ロードレーサー。ホンダ・ワークスライダーとして全日本ロードレース選手権に参戦した。1980年・1981年・1982年全日本ロードレース125cc三年連続シリーズチャンピオン[4]、身長163cm。国際A級通算15勝 (125cc・14勝 / 250cc・1勝)。 経歴レースキャリアホンダ社内チームの鈴鹿レーシング[5]よりMFJ全日本ロードレース選手権に参戦。1978年にジュニア(後の国際B級)へ昇格し、ランキング5位。国際A級初年度の1979年、開幕戦で優勝を飾るなど125ccクラスランキング2位を獲得すると、1980年から1982年まで125ccクラスを3連覇する偉業を達成[6]。全日本ロードレースに国際A級ライセンス制が導入された1979年以後、三連覇の達成は初であった[7]。 1982年にそれまでのホンダワークス・RSCがHRCとなり、一ノ瀬はHRC契約ライダーとなる[8]。1984年シーズンも開幕時は125に参戦し開幕戦から勝利を重ねていたが、同年はホンダが250ccクラスにRS250Rの実戦投入を開始し力を入れ始めたシーズンだったため[9]、中盤戦より阿部孝夫と一ノ瀬を250ccクラスへ参戦させる[注釈 1]。1985年は開幕からHRCのRS250Rでフル参戦し、第5戦SUGOで1勝をあげ、小林大、片山信二に次ぐ全日本250ランキング3位を獲得。250ccマシンへの適応を見せた[1]。 1986年よりホンダ系セミワークス体制のチーム・ブルーフォックスに移籍、しかしホンダが新ワークスマシンNSR、ヤマハもYZR250の参戦台数を同年より増やし、バブル景気による参戦台数の増加で1戦当たり90台を超える参戦数のラウンドもある中、市販レーサーRS250Rでの参戦だった一ノ瀬は予選不通過もあるなど、最終戦まで15位以内入賞がなくノーポイントで終了。ポイントランキング表に名前が残らない厳しいシーズンとなった[11]。 死去1987年8月3日18時10分ごろ、JR浜松駅東海道新幹線上りホームから線路上に降り、走行してきた新幹線車両と接触し自死[2]。31歳没。16歳から15年間ホンダ一筋のレース人生だった。一ノ瀬が乗りタイトルを獲得したRS125R-Wはモビリティリゾートもてぎにあるホンダコレクションホールにて保管されており、2023年まで常設展示されていた。以後も企画展で展示されることがある[12]。 レース戦歴全日本ロードレース選手権
鈴鹿8時間耐久ロードレース
脚注注釈出典
関連項目
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